意外にも一冊読み始めたらはまってしまって、結局野崎は夜遅くまで高橋のベッドを占領してしまっていた。 「野崎さん、俺もう寝るんですけど」 高橋にそう言われてはじめて、今がちょうど日をまたいだところだと知った。読みかけの漫画から顔を上げると、高橋はパソコンを閉じて椅子から腰を浮かせながら、作業の時だけ掛けるらしい眼鏡を外した。 「それ。持ってってもいいっすよ」 しばし考える。続きは気になるが、これを借りて帰ってしまったら、全巻読みきるまでこの部屋に通い続けることになりそうな気がしたからだ。 「それ何巻」 「四」 「気になるでしょ。続き」 図星だった。しかし、高橋がしたり顔でそう聞いてくるので、妙な対抗心が頭をもたげてくる。 「いいよ」 「でも気になるでしょ」 気になる。野崎はもう一度指を挟めた読みかけのページを開いて、ため息をついた。 「やっぱ……借りる」 「どうぞ」 高橋が笑う。相変わらず生意気な態度だが、言葉から棘は感じない。 「バスケット、やってるんだろ、お前」 野崎は立ち上がりながらそう問いかけた。いきなりの質問だったにもかかわらず、高橋はすぐに「はい」と頷いた。 「試合とか、やんの」 「なに、見たくなりました?」 すぐに後悔した。そうだ、高橋はこういう奴だった。野崎は「べつに」と答えながら、自分のスニーカーを探して足を突っ込む。本当は、少し見て見たいと思った。バスケ漫画を読んだからかもしれない。高橋が、どんなプレーをするのか少し気になったのだ。 「じゃあ、今日は悪かったな」 「今週の土曜日。アリーナで」 何が、とは聞かなかった。野崎は振り向かずに、思ったよりも軽いドアを開けて廊下に出た。 しん、と静まり返っている。廊下の両端の窓から月の明かりが差し込んでいるだけで、その光に吸い込まれそうなほどに視界は暗かった。斜め向かいの自室にはすぐに着くが、そのドアを開けることを野崎は一瞬躊躇した。空気が変わったせいもあってか、だんだんと悪い方向へと頭がシフトしてくる。単純な話、思い出したのだ。その思い出したくなかったものがまるごと、この部屋の中に存在している。 「あ、鍵閉めてなかったっけ……」 鍵を探してポケットを探ってから、そう気がつく。高橋の部屋に行ったときは気が動転していて、そこまで気が回らなかった。 部屋の中は、真っ暗で何も見えなかった。混乱した頭でも、きちんと電気を消して出たのには驚きだ。スイッチを探してつけると、部屋の散らかりようがはっきりと見えて表情は硬くなる。漫画を机に置き、それから床に落ちた封筒とメモを拾い上げて、乱暴に閉じたノートパソコンをゆっくり開いた。すぐにCDトレイを開けて中身を取り出し、一瞬迷った後、力をかけてCDを真っ二つに割る。割れる瞬間破片で指の付け根を切ったが、野崎はそれらを丸ごとゴミ箱に突っ込んで、ベッドに倒れこんだ。 頭が冴えきっている。電気を消しても、眠気はやってこなかった。 *** 「なあ野崎、お前昨日の夜どこ行ってた?」 寝起きは最悪だったが、水曜日は1限から講義が入っている。重い体を引きずって食堂に行くと、早速声をかけてきた飯田が、そう問いかけてきた。 「……えーと、ちょっと、高橋の部屋に」 何となく言いづらかったが、高橋は昨日のことを言わないと約束してくれた。深く突っ込まれなければ大丈夫だろう。 「高橋? なんで?」 「あー、えっと、漫画借りに」 「そうなんだ」 飯田はあっさりと納得して、パイプ椅子に腰を下ろした。朝食を取りに行こうとする野崎の背中に、言葉を続ける。 「昨日さ、メシ呼びに寄ったら鍵かかってないし、中電気ついてるしお前いないしで……」 「部屋ん中、入ったの!?」 野崎の心臓が途端に跳ねて、勢いで飯田に突っかかった。彼はその勢いに気圧されたように目を瞠って、疑問符を浮かべている。 「なに、入っちゃ、まずかった?」 「いや、そういうわけじゃあ……」 思わぬ大声を出してしまったことに気づいて、野崎は改めて配膳カウンターに向かった。飯田が入ったのなら、電気が消えていたこともドアがちゃんと閉まっていたことも納得だ。 「……なんか、見た?」 野崎は顔を上げないまま、飯田の向かいの席にトレーを置いた。少しの沈黙の後、「そういえば」と、思い出したように飯田が告げる。 「あの封筒」 ばっと顔を上げる。生唾を飲みこむと、飯田は丁寧に食事の前に手を合わせて「いただきます」をしていた。 「……お前んとこにも、入ってた?」 「ブラームスだろ」 「ブラ……なに」 飯田が箸を止めずに、何でもないことのように言う。野崎は予想していた答えの斜め上を行かれて、思わず聞き返した。 「作曲家だよ。あのCD、丸々ブラームスのCDのコピーだった」 ああクラシックのことかと、野崎はようやく納得した。やはり自分以外の住人には、あの音楽CDが配られたのだろう。ひとまず胸をなでおろす。しかし、バリバリ体育会系だと思っていた飯田がそんなことを知っているとは、正直意外だ。 「よく分かったな。その、ブレーメン」 「ブラームス。……母さんが好きで、車の中でよくかけてたから」 「ふうん……」 それにしては、浮かれるでもなく懐かしさに浸るでもなく、飯田の反応は淡々としている。寝不足のせいもあってぼうっとその箸運びを眺めていると、いよいよ訝しげに眉をひそめられた。 「食べないのかよ?」 「ああ、うん、ちょっと寝不足で、さ……」 慌てて箸を取り、まだ暖かいご飯を掻き込む。するともうこの話は終わりとばかりに、話題は今日提出の課題に移っていった。 すると、 「野崎さん」 唐突に名前を呼ばれ、声の主を探す。案の定高橋が入り口からこちらに向かって手を挙げていた。 「はよ」 「飯田さんも。おはようございます」 「おう。……こいつと違って寝起きいいよなあ、お前」 飯田はにやにやしながら高橋を振り向いた。確かに、昨日確実に十二時過ぎまで起きていたにもかかわらず、高橋の髪には寝癖一つ無い。あれで、寝相も寝付きもいいのだろうか。 そんなことを考えている間にも、飯田は朝食を綺麗に平らげて、箸を置くところだった。 「ごちそーさん」 「あ、俺シャワー浴びてから行くから、先行ってて」 昨日は夕食だけでなく風呂まで入りそびれてしまった。思ったより酷い体調に自分でも驚いているが、とにかくお湯を浴びればどうにかなるのではないかという考えである。 「分かった。無理すんなよ」 「……おう」 やはり調子が悪いのはお見通しだったらしい。飯田が席を立って歩いていくのを見ながら、そっとため息を吐く。 「さあ行きましょうか、風呂」 「た、高橋?」 後ろから聞こえてきた声に驚いてぎくりと肩を強張らせる。高橋は偉そうに腕を組んでいるが、 「……誰のせいで飯と風呂行きそびれたと思ってるんですか」 そんなことを言われてしまうともう何も言い返せない。 「あー……悪かったよ、ホント」 「べつに、いいですけど」 高橋はそう言って、本当に気にしていなさそうに笑った。笑っていれば年相応に見えるのに、と不躾にもそんなことを思いながら歩くうち、野崎はCDのこともブラームスのことも、一度も思い出さなかった。 |