深呼吸 20


 朝の大浴場を訪れるのは久しぶりだった。浴槽からはすっかり水が抜かれているが、窓から差す光がタイルに落ちて、柔らかな雰囲気を演出している。脱衣所からその様子を覗いて息を吸い込むと、後ろでは既に高橋がジャージを脱ぎ始めていた。露わになった上半身を見て、
「……すげえな、筋肉」
 思わず呟いてしまう。さすがにバスケットをやっているだけあって、上腕二頭筋と腹筋は見事なものだ。野崎が見慣れている飯田と比べてしまうが、彼はそのなかではどちらかと言うと小柄な方なので、筋肉はあるがあまり目立たないのかもしれない。ともかくもろにコンプレックスを刺激されて、野崎はしばし脱ぐのを躊躇した。
「そりゃ、筋トレしてるんすから」
 高橋はさも当たり前と言うようにさらっと言って、ズボンに手を掛ける。それ以上は見れずに目を逸らしたが、だるさがなぜか増したような気になって、野崎はようやくのろのろと脱衣を始めた。
「……早く浴びちゃった方がいいですよ、野崎さん」
「あーうん、分かってる」
 自分の部屋番号の書かれた木のロッカーを開けると、中からシャンプーやリンスの入った洗面器を取り出す。寮生は脱衣所にある自分のロッカーの中に、こういった洗髪道具やバスタオルなどを入れておいているのだ。
 ひたりと冷たい浴場のタイルの上に足を乗せると、天然の採光に視界を任せて使い慣れたシャワーの元に向かった。ひとつ飛ばした隣には、高橋が洗面器にお湯を溜めている。顔を洗うのだろう。
「そういえば、ここにハトが出たって話、知ってます?」
「ハト?」
 高橋はこちらに目もくれぬまま、そう切り出した。野崎もシャワーのコックを捻りながら、引っかかった記憶を引きずり出す。
「あー、それ、昨日さくらさんに聞いた」
「誰が連れてきたんでしょうね、ハトなんて」
「連れてきた? 勝手に入ってきたんだろ」
 高橋はついと視線を動かし、浴場の小窓を見た。つられてそちらを向くが、鳩どころか小鳥一匹の姿すらここからは確認できない。
「ハトって群生するんですよ」
「はあ」
「しかも、夕方には必ず巣に戻る」
「ふうん……?」
 眠いせいか、高橋の言葉がいまいち頭でまとまらない。野崎は高橋がその先を言うのを待ちながら、熱いシャワーを浴びた。気持ちいい。目を瞑ると、次第に体が火照ってくる。先に体を洗ってしまおうと、ボディソープのボトルを確認した。
「だから、夕方に開いてもいない窓から鳩が入って出られなくなるなんて事はないはずなんです」
「随分博識だな」
「叔父さんが飼ってたんで」
「ハトなんて、わざわざ飼うんだ」
 体をガシガシと洗う。叔父が飼っていたにしては、やはり詳しい。どうやらただのバスケ馬鹿ではないようだ。
「そこら辺に住みついてるのはいわゆるドバト。飼ってたのは、レース鳩ですから」
「はあ。ドバトねえ」
 体を流してしまうと、今度はシャンプーのボトルに手を掛ける。いくらか血流は良くなってきたが、まだ頭は上手く働かない。
「CTビルの屋上に大量に住み着いてるって話なら、聞いたことある」
「そうそう。あと、ここの近くの公園とか」
 シャワーを持つ手が一瞬震えた。泡を少しばかり髪に残したまま、シャワーノズルがカツンと床に落ちる。
「……あ、わりい」
 野崎は慌ててそれを拾いあげると、何事も無かったかのように再び熱い湯を浴びはじめた。高橋はそれ以上何も言わなかったが、何かを察知していたらまずい。この男は妙なところで勘が冴えている。
「……やっぱり、ちょっと寝ていったほうがいいですよ」
「余計なお世話だ」
 どうやらさっきの失態を、高橋は体の不調と捉えたらしい。しかし、だからといってこれ以上弱みを見せるわけにはいかない。高橋には感謝しているが、過去を含めた全てのことをを共有して欲しいと思っているわけではないのだ。むしろ、こんなことになってしまったからこそ、彼にだけは知られたくない。
「俺、もう行くから」
 ざっと顔を洗ってしまうと、野崎は支度もそこそこに立ち上がった。と、立ちくらみで頭がぐわんと揺れる。平衡感覚が無くなって、思わずその場に尻餅をついてしまった。
「……あー」
 立ちくらみもそうだが、熱い湯を浴びすぎたせいか少々のぼせてしまったらしい。ぐるぐる揺れている視界が止まるまでだらしなく座っていると、高橋が目の前に来て呆れたようにしゃがんだ。目線が合う。
「だから、寝てった方がいいですって」
 からかうわけでもなく、その瞳はあくまで真摯だ。寝たくても寝れないんだと心の中でぼやく。野崎は文句の一つも言いたい気分だったが、恩を仇で返すようなことはしたくないので黙って口を噤んだ。
「……俺、そんなに酷い顔してる?」
 それだけ聞くと、ようやく治まった眩暈にため息を吐いて立ち上がる。
「酷い顔、っていうか。見りゃ分かりますよ」
 野崎は高橋の物言いに思わず閉口した。そういえば、飯田も一目で野崎の不調を見抜いていた。ふと振り返って鏡に自分の顔を映す。くまはあまり目立たない方だし、頬は火照って赤くなっている。自分としては、特に調子の悪いような見た目はしていないと思うのだが。
「……普通だろ」
 高橋がその様子を見て苦笑する。野崎はやはり大学には行こうと決意した。もしかしたら講義中、案外簡単に眠ることが出来るかもしれない。
「そりゃ、血行はいいでしょうけどね」
 高橋の言葉を背に、野崎は今度こそ脱衣所へ向かった。湯気ですっかり曇ったドアを開けると、涼しい新鮮な空気が肺に流れ込んできて気持ちいい。
「……眠れないんなら、俺が添い寝でもしてあげましょうか」
「遠慮しとく」
 後ろから高橋も戻ってきたのを感じながら、バスタオルを頭から被る。そうして髪を適当に拭いていると、ガラリと脱衣所の引き戸が開けられた。
「あっ!」
 驚いたような叫び声に聞き覚えがある。横目で見ると、案の定朝から元気そうな後輩の姿。
「大森」
「はよっす、野崎さん! 珍しいですね、こんな朝から……って、あれ、高橋も?」
「朝から元気だよなぁ、お前」
 高橋が早くもジャージに手を掛けながら、面倒くさそうに返す。野崎もそれに倣いながら、大森に目を向けた。彼は野球のユニフォーム姿で、一汗かいてきたらしく帽子の脇からはみ出る髪の毛から汗が滴っている。
「俺は、昨日風呂入り損ねたから。お前は?」
「はい、サークルの朝練終わったんで」
 ということは、大森は野球サークルに入っているのだろう。部でもないのに朝練まであるのだろうか。それでも、彼の充実そうな表情からは辛いといった感情は読み取れない。好きでやっているのだろう。
 それにしても。
「元気そうだな」
 対照的だった日曜日の暴れようを思い出して、野崎は苦笑した。大森はばつの悪そうな顔になって、それから頭を下げた。
「あの、この前は本当にありがとうございました! 俺、あれから色々考えて――……あ」
「ん?」
 Tシャツの上からパーカーを羽織ったところで、大森が顔を不意に上げて静止した。そして黙ったまま、一歩、二歩と詰め寄ってくる。
「お、おい……」
「こ、これっすよ、この匂い……! わ、やべ」
 そして早口で言うと、ぱっと踵を返して走り去ってしまった。まったく訳のわからないまま野崎はその場に突っ立って、意見を求めるように高橋を振り向く。彼は何か思うところがあるのか、神妙な表情で黙っていた。
「……匂いって、なに?」
 ややあって、不可解そうに訊ねてくる。
「俺も何のことだか……あ。あー……」
 いや、思い出した。確かあのとき、大森に変なことを言われたのだ。しかも、これまた説明しづらいことである。
「髪の匂いが、どうとか。前に」
「ふうん」
 しかし、大森は風呂に入りに来たのだろう。一体何処へ行ったのだろうか。
「まあ元気そうだし、いっか」
 一人ごちて、野崎は廊下に出た。後ろから高橋がついてくる。大森の姿を探してみたが、やはりどこにもいない。そのまま部屋の前まで行って、鍵を開ける。中に入ろうとして――野崎は振り向いた。
「何でお前まで着いて来るんだよ」
「さあ、なんででしょう」
 高橋は笑顔のまま、ぴたりと野崎の後ろにくっ付いてきていた。玄関をまたごうとするのを見かねて制止するが、全く聞く様子は無い。
「まあ、ちょっとだけ、いいじゃないですか」
 家主よりも先に部屋に上がる後輩など、早々いるものではない。野崎は頭痛が戻ってきたような気がして、ため息をついた。
「あれ、サボテンなんてありましたっけ?」
「え?」
 高橋の言葉に、野崎は耳を疑った。目線は、机の上の小さい緑に注がれる。
「これ……お前が置いてったんじゃ、なかったのか?」
「は? 何で俺が。てか、いつ」
「ほら、先週の月曜日。部屋の前でお前と会ったとき」
 キスされるほど近くなった顔を思い出してしまい、思わず目を逸らした。高橋はそのときのことを思い出したのか、次第に困惑の表情になる。
「あの時は……。でも俺、部屋ん中には入ってないっす」
 何が「でも」なのかわからないが、高橋は本当に不思議そうだ。そして思いついたようにサボテンに近寄ると、小さい鉢を持ち上げる。
「……何で、俺だと思ったんです」
「そりゃ、お前が部屋の前にいたし、メモが――」
 野崎ははっとして口を閉じた。メモ。そうだ、メモには何と書いてあった?
 『水はいりません。T.』
「T……まさか、」
 野崎はゴミ箱の中に手を突っ込んで、昨日捨てたばかりのくしゃくしゃになった紙を取り出した。メモの差出人はT。間違いない。高橋が持っているサボテンを机に戻す。もしこの植物が、Tという人物からの贈り物だとしたら。急に不気味なものに思えてきて、目を伏せた。落ち着けと、しきりに自分に言い聞かせる。
「それ、貸して」
 声と共に、ぱっと手の中のメモが奪われる。声を上げる暇も無かった。
「返せよ」
「メモ、ね。……野崎さん」
 高橋の目は真剣だった。強い眼差しから逃れることが出来ない。一歩足を引こうとすると、腕を掴まれて阻止される。熱い手だった。
「高橋」
「俺には、知る権利がありますか」
 静かな声で、高橋はそう口にした。掴まれている箇所が熱を持つ。力は殆ど入っていない。振り払えば、存外簡単に解けてしまうだろう。それなのに、全身が金縛りにあったように動かない。
「……おまえには」
 お前には、知られたくない。答えは決まっているのに声が震えて、野崎はそれ以上を言葉にすることができなかった。




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