野崎が自分の部屋のドアを開けると、開けっ放しの窓から入った風でカーテンが揺らめいていた。時計に目をやる。隣に置いていた小さなサボテンの鉢は、今は無い。先日高橋を部屋に入れたとき、野崎が質問に答えないのを見て何を思ったのか、強引に持っていってしまったのだ。気味悪く思っていたのも正直なところだが、あの後あれはどうしたのだろう。 「野崎、入るぞ」 「飯田?」 ドア越しに声がして、野崎ははっとして振り返った。遠慮がちにドアを開けて入ってきた飯田は、バッグも下ろさずに突っ立っている野崎に気づいて表情を固くする。 「……メール、見た?」 「メール?」 「あ、なんだ、見てないんだ」 飯田は安堵したように息をつくと、野崎のベッドに腰を下ろした。野崎もようやくバッグを肩からおろして、椅子に腰掛ける。 「今日の金曜会の連絡。鈴木さんから」 「ちょっと待って、見てみる」 ズボンのポケットに手を入れて、携帯電話を取り出す。メールを確認してみると、確かに新着メールが来ていた。素早く確認する。 「……バスケ?」 内容は、このあとの金曜会についてのことだった。どうやら今日はバスケをやるらしい。道具も場所も無いと言っていたのに、どういうことだろう。野崎が首をかしげると、飯田は言いづらそうに、「そこじゃなくて」と言った。 「そこじゃなくて。……場所」 「場所?」 飯田の指摘を受けて、再びメール画面に目を落とす。自然とスクロールの手が止まった。生唾を飲み込んで、恐る恐る顔を上げる。 「……森林公園、となり、って……」 飯田は何も言わずに頷いた。野崎は脳裏に浮かぶ嫌な想像を紛らわすように窓の外へ目を向ける。あの公園が「森林公園」と呼ばれていることを知ったのは、随分後になってからだ。公園の隣に何があったかなんて暗くて分からなかったし、第一確かめたいとも思わない。 「……」 心配してわざわざ訊ねてきてくれた飯田に礼を言うべきだろうが、無理に明るく振舞っても余計に心配をかけてしまうだけかもしれない。野崎は開きかけた口を引き結んで、沈黙した。 「……な、サボっちゃうか」 しかし唐突に、飯田がそう呟いた。思わず振り返ると、彼は本当になんでもないというような顔をして天井を仰いでいた。 「なんか適当に理由つけてさ。別に一回くらいどうってことないって」 野崎は面食らって、無駄に瞬きを繰り返した。気遣いを気遣いと感じさせない悪戯っぽい笑顔に、肩の力が抜ける。 「……行くよ」 その言葉は、自然と口からこぼれていた。 「無理してんなら、嫌でも止めるぞ」 飯田の真剣な眼差しを受け止める。不思議と恐怖はない。 「そうじゃなくて。飯田がバスケしてんの、見てみたいし」 「……下手になってると思うぜ?」 言いながら、飯田はようやく苦笑を浮かべた。「しょうがないな」のサインだ。 「俺よりは上手いだろ」 「野崎はノーコンだもんな」 「うっせ」 いつもの軽口を叩きながら、ハンガーにかけてあったジャージとTシャツを取る。そのまま窓を閉めると、脇で揺らめいていたカーテンが大人しくなる。野崎はひとつ大きく息を吸って、飯田へ顔を向けた。 「着替えたら行くから、玄関のとこで」 「おう」 「……さんきゅ」 飯田はいつものようにニッと笑って見せると、入ってきたときより幾分軽い足取りで部屋を後にした。風の音の途絶えた室内は、しんと静まり返る。 「……関係ない、よな」 野崎は自分に言い聞かせるように呟いた。そうだ、何か関係があると考える方がおかしい。ただの公園の隣に、バスケのコートがあったのだ。ただ、それだけのことじゃないか。 考え事をしながら手を動かすのは良くない癖だ。鞄から財布を取りだそうとしたとき、指に鋭い痛みが走って我に返った。見ると、親指の付け根にうっすら血が滲んでいる。 「……縁起悪ぃ」 無理やりCDを割ったときの傷だった。すっかり忘れていたが、紙か何かで同じところを切ってしまったらしい。窓の外の日はまだ高い。サボテンもCDもメモ用紙も、もうこの部屋に残っている物は何もないはずなのに、胸がざわつくのはなぜだろう。いっそのこと、飯田に全部言ってしまおうか。そう考えて、野崎は都合のいい自分の考えに嫌気が差した。首を振る。 頼るのと、寄りかかるのは違う。 まだ何も起こっていないのだ。少なくとも、今はまだ。 *** 公園まで歩く間、野崎は気を紛らわすためにずっと音楽を聴いていた。飯田が隣を歩いているが、野崎のことを気遣ってか、歩調だけは合わせたままそっとしておいてくれた。 「こんなとこに公園あったなんて、知らなかったっすよ、俺!」 大森が先頭から時折こちらを振り返ってはしゃいでいる。 「隣にコートがあるのは知ってたんだけどな。管理人となかなか連絡がつかなくて」 鈴木も自慢げに話している。だんだんと見えてくる公園の入り口に、野崎は必死に目を逸らす。あれ以来、ここに来るのは初めてだった。音楽が頭に反響して、気持ちが悪い。気がつくと足が止まってしまっていた。 飯田が心配そうに何か言う。ぐっと目を瞑って気持ち悪さと眩暈に耐えていると、不意に背中をぽんと叩かれた。途端、一気に周りの音がクリアになる。 「置いてかれちゃいますよ」 「……高橋」 野崎が片方のイヤフォンを外されたとようやく気づいたとき、隣では飯田がなんとも言えないような顔をしていた。不思議と気持ち悪さは消えている。 「……なあ野崎」 「なに」 「アイツと、何かあった?」 飯田の問いに野崎は三秒きっちり固まって、結局、 「別に……漫画借りただけ」 逃げるようにそう返した。 「そういうんじゃなくてさ、」 飯田はまだ何か言いたそうにしていたが、言葉が出てこなかったのか諦めて、再び歩き始める。僅かな罪悪感に野崎は俯いた。 「……」 高橋と何かあったかなんて、どうしてそんなことがわかるんだろう。何かあったといえばあったような気もするし、なかったと言えばそうとも言える。あの男は野崎のグレーゾーンに踏み込んできてはいるが、それだけだ。これ以上かき回されることもない、はずなのだ。お互いに。 ――俺には、知る権利がありますか。 あのときの高橋の目を何度も思い出す。きっぱり切り捨ててしまっていたら、こんな宙ぶらりんの状態にならずに済んだのだろうか。 殆ど早足で公園を通り過ぎて金網の奥へ入ると、野崎は思わず足を止めた。周りを見ると、会員たちが皆同じようにその場を見回している。 「これ、コートって……」 大森が唖然と呟いた。それを聞いてようやく、野崎は目の前にある雑草畑が当初の目的地であることに気づく。 「……確かに、ゴールはありますけど」 高橋の不満そうな声に、阿部も同意した。 「酷いな」 「文句言うな。大変だったんだぞ、ここ借りるの」 皆の反応を聞きながら、鈴木だけは憮然とした態度で足を進める。長身である彼の膝上まである雑草を掻き分けていくのは野崎でも至難の業だったが、恐らく最も苦労したのは背の低い石川だろう。 「ぶわ、虫口の中に入った!」 「ちょっと大森、唾飛ばさないでよ」 草を踏み分けてコートの真ん中へ移動する。正面からみると、確かにバスケットゴールが向かい合わせに設置してあった。これも随分古そうな木製だったが、飯田と高橋が揃いも揃って嬉しそうな顔で見上げているので、何か言う気もなくなってしまった。 「鈴木さん、今日ってもしかして……」 野崎が一抹の不安を覚えて訊ねると、案の定鈴木はエナメルバッグからボールではなく、軍手や鎌を次々と取り出し始めた。 「察しがいいな、野崎。もちろん、まずは草取りだ!」 「げっ」 声を上げたのは大森だったが、誰もがそう思っただろう。コンクリートですらない地面から生える雑草は、一体何年の間放置され続けてきたのか、頑丈な根が張っていそうだ。 「ほらほら、皆取りに来い」 一切の反論を許さず、鈴木は軍手を配布し始めた。野崎も諦めてそれを受け取る。バスケットコート一面分の草取りなんて、こんな少人数でやることではないだろう。……その言葉も、心の奥にしまっておいたのだが。 「……あちー」 一時間もすると、日もだんだん落ちてくる。青々と生長した雑草は少なくなり、コートははじめに比べ随分すっきりしてきた。野崎がスポーツドリンクを呷ると、後ろからダン、とボールの弾む音が聞こえて振り返る。 「高橋……?」 乾いた土ぼこりを上げながら何度かドリブルして、ジャンプシュート。放たれたボールはリングの淵にすら触れずに網をくぐり抜ける。野崎は口を開けたまま、その流れるような動きに目を奪われていた。 「ナイシュ」 それを見ていたらしい飯田が手を叩く。高橋は転がったボールを拾って、再び何度かドリブルを繰り返した。ボールはすぐにその手に馴染んで、まるで自らの意思で吸い付いているようだ。 「スリー、入れんのか」 ぼそりと零した飯田の予想通り、高橋はまっすぐ後ろに下がり始めた。スリーポイントシュートだ。ここには何の線も引かれていないが、感覚で分かるものなのかもしれない。 気づくと、メンバー全員が既に草取りをやめて、彼一人に注目していた。高橋は集中するようにその場で何度かボールをつき、それを顔の高さまで上げる。静寂を破るようにボールがひゅっと放たれた瞬間、野崎は夕陽と重なったその影に思わず目を細めた。 ボードに当たったボールは、網の中へすとんと落ちる。 「ナイシュ!」 飯田の声を合図に、ぱらぱらと拍手が起こった。そのなかに鈴木の「皆作業に戻れ」の合図があったことに、気づいたものは少ないだろう。 「はー、すげえなあ、あいつ」 いつの間にか隣にいた大森が感心して何度も頷いている。 「……なあ大森」 「え、なんすか?」 野崎は掘り起こされた土を踏み固めながら、立ち上がる。 「アリーナってどこだか、分かる」 ――今週の土曜日、アリーナで。背中越しに聞いた高橋の声が蘇る。 ほんの少し、興味が沸いただけだ。それだけだと自分に言い聞かせて、野崎は土で汚れたジャージを手で払った。 |