土曜日は快晴だった。鞄を肩から掛けて、ボトルのガムを一つ口に放り入れる。強いミント味が苦手な野崎は、ちょっと甘めの柑橘系を好んで買っている。レモンの風味が口に広がって、気分がすっきりしてきた。九時。休日にしては、早めの身支度だ。久しぶりに握る自転車の鍵を揺らしながら、スニーカーを突っかける。 大森が教えてくれた道順は、彼らしいと言うかなんというか、ひどく大雑把なものだった。 「駅を右に行って、大きいビルを左……だっけ。……なんだよ、大きいビルって」 一人ごちて、スニーカーのつま先をトンと跳ねさせる。大きいビルなんて駅周辺にはそれこそ腐るほどあるし、彼の説明は如何せん抽象的な用語が多すぎた。結局駅の案内板でも見て向かうことになるのだろう。博打はしない主義だ。 ドアを開けると、ちょうど階段を昇ってくる足音が聞こえてきた。鍵を閉めている野崎の背後に回り、手を首へ回してくる。 「あっついんだけど。西山」 「おはよー」 「はーなーれーろ」 無理やり引き剥がしながら振り向く。シャワーを浴びてきたところなのだろう、西山は反省する様子も無く濡れた髪をタオルで擦りながら、火照った顔を手ではたいた。 「野崎も出かけんの?」 「も、って」 「飯田が朝早くどっかに行ったみたいだからさあ」 「珍しいな」 土曜日は、皆何かと忙しい。昨日は何も言っていなかったと思うのだが、急用だろうか。少し思案していると、西山が思い出したように「そうそう」と切り出した。 「焼肉、どうする?」 「焼肉?」 西山の言葉を復唱する。記憶を少し辿ってみて、ついと思い出した。 「ああ、お前のおごりのな」 「げっ、そこは思い出さなくていいんだけど」 確かに、この間三人で話したときにそんなことを言っていた気がする。色々なことがあり過ぎて、すっかり忘れていた。 「俺は夜なら、いつでもいいよ」 「じゃあ今夜七時、大学の正門前で」 「わかった」 軽く手を挙げて挨拶すると、野崎は西山に背を向けて歩き出した。携帯を片手で開く。 「九時半、か……」 試合開始時刻なんて聞いていないし、わざわざ聞くのも何となく嫌で、結局分かったのは施設の開場時刻が八時半ということだけだった。今から行けば、三十分もあれば着くだろう。こっそり覗いて、気づかれないように帰ってくればいい。別に、見つかるのが嫌というわけではない。どうも全てが高橋の思うつぼのような気にして癪なだけだ。 *** 区営のアリーナは、野崎の想像以上に大きかった。建物自体は白くユニークなデザインをしていて、入り口へ向かう広いタイルの階段を昇ると、小さな公園のようなスペースが現れる。これもデザインのひとつなのだろう。休日のせいか、それとも何か大きなイベントがあるのか、多くの人が行き交っている。 自転車を止めて建物の中へ入る。外に比べてやけに静かな印象だが、時折キュ、キュとシューズが床と擦れる音が聞こえてくる。どこから聞こえているのだろうか。耳を済ませるが、天井の高い場内に反響していて分からない。とりあえず、入り口に設置された使用状況のボードを覗き込んでみた。 「メインアリーナ、サブアリーナ、練習場1、2、3……」 さすが休日と言うべきか、それとも普段からこうなのかは知らないが、どの会場も試合やら練習やらで埋まっていた。ざっと目を通して、途方に暮れる。 「どれだろ……」 どうやらバスケット関連のものは5つで、2つは大会、他は練習試合だ。しかし、その中に大学名が書いてある様子は無い。チーム名のようなものがやたらとたくさんあるが、どれひとつとしてピンと来なかった。野崎は己の準備不足を恨んだ。行けば分かるだろうという甘い考えは通用しなかったのだ。 「ねえねえ君。何か探してる?」 難しい顔をしていると、誰かに後ろから肩を叩かれた。慌てて振り向くと、そこにいたのは派手な風貌の若い男だった。西山より明るい茶髪に、これまた派手な色のサルエルパンツ。彼は大きいピアスを耳からぶら下げながら、人懐っこい笑みを浮かべていた。野崎が一人でうんうん唸っていたのを見ていたのだろうか。 「ね、何か探してるんでしょ」 「あー、まあ……」 「どれ?」 男はボードを見ながら言うが、「どれ」かがわかったら苦労しない。ここで足踏みをしているのは地図が読めないからではないのだ。 「大学のバスケサークルの練習試合、見に来たんだけど」 「それって、これ?」 だから、ボードを指されても分からないんだって。野崎は言葉をぐっと飲み込むと、そこに書かれてある文字を追った。 「地区バスケチーム三組合同練習試合」 「もしかして、あんた名葉大?」 「そうだけど」 「俺も! 一年だろ、学部どこ? 見たこと無い顔だから、違うかな」 「あ、あの……」 一気に饒舌になった彼の勢いに押されて、野崎はすっかり固まってしまった。こういうタイプは苦手だ。大体一年じゃないし、と心の中で文句を言う。会話のキャッチボールはきちんとしたい。 「あ、そうだった、見に行くんだったよな。じゃ、一緒に行こうぜ」 今度は、ぐいと手を引かれる。振り払うことも出来ずに引きずられるようにして歩いた。この男も、以前スポーツをやっていたのだろう、触れる手の感覚でそう感じた。 「俺、加藤信弘。あんたは?」 「野崎、稔」 ようやく名前が判明したとたん、加藤は足を止めた。練習場2と書かれた大きな扉の置くから、ボールの弾む音や靴の鳴る音が聞こえてくる。確かにこの場所なのだろう。 「……入らないのか?」 野崎が呼びかけると、加藤は振り向いて得意げに扉の横を指差した。 「この階段から二階席にいけるんだ」 「二階席なんてあんのか」 「スペースは小さいけど、試合全体がよく見えていいぜ」 加藤が得意げに話すだけのことはあった。二階席といっても椅子など無い立ち見席だったが、既に数台のカメラが設置してある。全体を見渡す絶好のスポットという彼の台詞は、あながち間違いではないらしい。 「得点板に書いてあるのって、あれ、チーム名?」 どうやら三つのチームが総当りで試合をするらしい。手前のAコートでは練習、奥のBコートでは既に二チームが試合を始めている。得点板には「赤天」と「SB」の文字。加藤はそれを得意げに説明してくれた。 「『赤天』は赤天狗。赤塚大のバスケサークルだろ。『SB』は松葉ストリートボーイズ。地元のストリートバスケチーム。んで、手前で練習してるのがブルーブリッツ」 「それが、ウチの大学のチームか。……お前、詳しいな」 純粋に感心して口にする。しかしそれを見た加藤は、不審げに眉を潜めた。 「あんたこそ、よく何にも知らないで来たよな」 「……」 軽く呆れられているらしい。たしかに、自分が応援しにきたチームの名前も分からないとなれば当然だろう。何も教えてくれなかった高橋のせいだ、と密かに責任転嫁して、野崎はコートに目を落とした。入れ替わり立ち代り動いている青のブレーカーを目で追うが、どれが高橋なのかさっぱり分からない。 「誰探してんの?」 「いや、べつに……あ」 見つけた。各々の物を置いたコートの端の方で、タオルを持ったまま飲み物を呷っている男だ。 「なに、どうしたの」 「……」 野崎が黙って目で追っていると、程なくして、高橋がこちらを見上げた。あまりに自然な動作で、気づいたときにはばっちり目が合っている。野崎は驚いて目を瞠ったが、それは向こうも同じだった。それからなんともいえない表情をして、タオルを持った手を上げる。挨拶のつもりなのだろう。無視することも出来ずに、野崎も小さく手を振った。 「……ビックリした。あれ、幸直だろ」 「幸直?」 聞き返してから、思い出した。高橋の下の名前だ。 「高橋幸直。中学のときのチームメイトだったんだ、あいつ」 「チームメイト、って……加藤もバスケやってたのか」 「高校でやめちゃったけどな。そっか、大学、同じだったんだ……」 加藤は昔を懐かしむように天井を見上げる。野崎がその様子を横目で見ていると、彼は「あいつとは」と切り出した。 「高校から一緒?」 「いや。大学で」 一緒どころか、まだ出会って一ヶ月だ。なんだか面倒になってしまって訂正する機会を逸してしまったが、あくまで後輩である。 「今日ここに来たのは、もしかして幸直に誘われたから?」 「誘われたっていうか……」 誘うという表現をするには一方的な通知だった。勝手に来たのは自分の方だ。 「まあ、勝手に見に来たんだよ」 「そっか」 言ったきり、加藤は黙り込んだ。ビー、とデジタルタイマーの音が会場内に鳴り響く。どうやら、試合が終わったらしい。挨拶を終えた後、白いユニフォームを着たチームと入れ替わりに、高橋たちがコートに入る。十数人のメンバーが次々とジャージを脱ぎ始めると、中から少し光沢のある紺色のユニフォームが露わになった。『Blue Brits』と白いロゴが入っている。 「相手……あの、赤天狗? って、強いのか」 「互角じゃねーかな。ストリートボーイズは社会人も混ざってるし、強いけど」 加藤は見た目に似合わず、本当にバスケに詳しいようだ。試合のルールすら曖昧な自分とは違う。 「バスケの試合なんて見んの、高校の球技大会以来だ」 「気持ちいいよ。ひたすらボール追いかけて走るんだから」 加藤は楽しそうな顔をしてそう力説した。なんでやめたのか、なんて聞く気も無いが、ふと同じような友人の事を思い出す。 「始まるぜ」 コートに目を戻すと、チームは互いに並んで挨拶をしているところだった。気合いれの後、それぞれ五人がユニフォーム姿でポジションに着く。その中に、10番を背負った高橋の姿があった。 「……すげえ」 けたたましい電子音が鳴る。試合が始まった。 |