ジリリリリ、と、これでもかというほどの大音量で深い眠りから無理やり引っ張りだされたときは、一瞬本気で殺意が芽生えたほどだった。これだけは、本当に慣れない。 「おはようございます」 「……」 隣で起き上がる気配がして、野崎は布団を引き寄せる。まだ眠いのだ。 「野崎さん」 「んー」 この男は寝起きがすこぶる良い。まだ眠いので頑なに目を開けようとしない野崎を見かねて、頬にキスをしてきた。黙っていると、くすぐったい唇が少しずつ下の方に降りてくる。顎の裏、喉仏を通り、鎖骨の上あたりまで来たとき、ついに耐えられなくなった野崎がストップをかけた。 「あれ、終わり?」 「……お、まえ、なぁ……」 首を抑えながら睨みつけると、くすりと悪戯っぽく笑う高橋が目の前にいた。この顔を見るとつい許してしまうのは惚れた弱み、とかいうやつなのだろうか。 「起きましたか? ほら、早く準備して」 「準備?」 「俺は有言実行の男ですから」 そう言い放って言われるがまま無理やり支度をさせられた野崎は、気づいたらあの公園まで来ていた。ここに来るのは実に一か月ぶりだ。 「こっちこっち」 腕をひかれてたどり着いた先は、隣のバスケコート。何となく嫌な予感が頭をよぎる。 そこには先客がいた。 「遅かったな。こっちはもう準備運動してるぜ」 「飯田……」 果たして、嫌な予感は的中した。 あの一件の後、金葉荘の前で飯田は待っていた。黒服をどうしたのかと問うと、「家に帰した」の一点張りだった。いったい何があったのか気になったが、それより今回の事の顛末を彼に聞かなくてはならなかった。 「で、ちゃんと説明してくれるんだろうな?」 「言うよ。……俺も知ったばっかなんだ。隠してたわけじゃないからな」 飯田はバツが悪そうに、続けて「とりあえず俺の部屋に来るか」と言った。 夜も深くなり、食堂の明かりもとっくに消えている。三人は金葉荘の暗い階段を静かに上ると、飯田の部屋の前で止まる。カチャリと静かに鍵を開けた飯田に続いて、野崎と高橋も彼の片付いた部屋に入ると、パッと電気がついた。飯田はキャスター付きの椅子に腰かけて、野崎と高橋にも適当に座るように促す。 「分かりやすく簡潔に言うと、こういうことだ」 息をつく暇もなく、飯田はそう切り出した。 「俺の親父があの男の部下だったんだけど、会社を辞める決心がついたんで一緒にあいつの宝物も処分してしまおう、と」 そこで飯田は言葉を切った。続ける様子はない。 「え、それで?」 「おわり」 「…………本当に簡潔でしたね」 「ちょ、ちょっと待て」 飯田から事前に話の一端は聞いていたと思われる高橋は感心したようにつぶやいたが、野崎は状況が飲み込めずに頭を抱えた。以前飯田に見せてもらった写真は、仕事関係で撮った写真だったのだろう。部下と上司、というのも飲み込める。 「テープは? あのUSBは?」 疑問だらけで混乱しそうだ。 「どっちも、親父からもらった。どうやって手に入れたかは知らないけど」 やはり飯田の答えは簡潔だ。 「それと、USBの本物は明日になれば警察に届くだろうな」 「それって……」 「あいつに返したのは俺のUSB。同じメーカー品だったから、ストラップだけ付け替えてやった」 なるほど。そういえば、飯田の持っていた物によく似ていると思ったのだ。 「……待て、警察って?」 頭が回らない。飯田は野崎のとぼけた質問にも眉一つ顰めずに答えてくれた。 「中身を見たんだけど、裏で販売してたビデオのデータだろうな、あれは。タイトルごとに分かれてて、再生するまでもなかった。……ポストに投函してやったよ」 周到だ。飯田らしいと言えばらしいが、そこまであの男のことを憎んでいたのだろうか。 「ちなみに、テープなんだけど、……どうする?」 そこで初めて、飯田は気遣うように静かな声で確認した。野崎は意外と落ち着いている自分に驚きながらも、少し考えるそぶりをした。……実際は、考える頭の余裕などなかったのだ。 「ゴミだから、ゴミ箱でいいんじゃないか」 「え」 「おいおい」 二人同時に突っ込みが入った。気まずさを覚えてうつむく。 「……今俺の頭動いてないから」 隣で高橋がぷっと吹きだす。顔をあげると、飯田も椅子の上で胡坐なぞかいて、笑っていた。 「笑うなよ」 「いや、いいですよ、野崎さん。ごみは捨てて、もう寝ましょうか」 「はは、そうだな。俺もこれ以上話すことはないし、お前らもさっさと寝ろ」 時計を見ると、既に23時を示している。シャワーは明日の朝借りるとして、さっさと部屋に引き上げることにした。 「じゃあ、また明日」 「おう」 「お邪魔しました」 軽いあいさつで彼の部屋を後にすると、野崎と高橋は無言で静かな廊下を歩いた。部屋の前につくと、野崎は急に心細くなって、ふうと息をついた。 「ありがとな」 鍵を開けながら言う。 「いえ。お邪魔します」 「うん。え?」 野崎が呆気に取られていると、その横をすっと通り抜けて、高橋は人の部屋に勝手に上り込んでいた。 「おい、勝手に」 「だめですか」 部屋が暗いまま、高橋の顔だけが月明かりに照らされて綺麗にうつる。野崎は後ろ手にドアを閉めると、部屋の明かりをつけた。 「……」 高橋が野崎の手を引く。ベッドのほうに連れて行かれて、痛いくらいに抱きしめられた。 「…………野崎さん」 高橋の気持ちがどっと流れ込んできたようで、野崎は息が詰まる。 「……ああ、確かにな……」 「うん?」 高橋が疑問符を出す。野崎も高橋を抱きしめ返して、そのまま勢いよくベッドに倒れ込んだ。道連れで野崎の下敷きになった高橋が驚いたように目を瞬かせてこちらを見ている。 「今、俺、最高の気分だ」 高橋の言葉を借りてそう言うと、状況を飲み込んだ高橋の顔がかっと赤くなった。珍しいこともあるものだ。満足する。 「……馬鹿にしてます?」 笑っていると、唇を塞がれた。 「ああ?」 今までの回想のどこに、今日朝早起きをしてこんなところまで来なければならない文脈があったというのだろう。思わず思い出さなくてもいいことまで思い出してしまい、野崎は羞恥に首を振った。 「スリーオンスリーやりましょうって、約束しましたよね」 確かにそんなことも言った。しかしそれがなぜ今日なのか。 「大体、三人じゃスリーオンスリーはできないぞ」 「当たり前だろ」 飯田にしれっと突っ込まれて、野崎は帰ってやろうかと本気で思った。こっちは本当に眠いのだ。 「人員は確保してます」 高橋が言うのとほぼ同時に、道路の方からわいわいと声が聞こえてきた。 「お、いるな!」 はっきりと聞こえてきたのは鈴木の声だ。次いで阿部、大森、石川、そして久世も姿を現した。ついぺこりと頭を下げると、久世は手をぷらぷらと振った。気にするなということだろう。 「おい、これはどういう……?」 野崎がぽつりと隣に問いかけると、高橋はストレッチをはじめながら、「話が大きくなっちゃって」と悪びれる様子もなく言った。 「そうそう、そうなんだよね」 後ろから声がしたので振り返ると、これまた見慣れた友人の姿だった。 「西山」 西山は高橋と野崎の間に割りこむようにして入り、はあ、と大げさにため息をついた。 「俺の専門はテニスなんだけど」 「何が専門だよ。モテるからやってるって言ってなかったか」 飯田が横目で呆れたように言う。西山はぺろりと舌を出しそうな勢いだ。 「でも珍しいな、お前がこういう集まりに来るの」 「ちょっとね、いろいろお話を聞かなきゃいけないこともありますし」 そうだった、と野崎は思い出してげんなりした。後でちゃんと話せと言われていたのだ。 「別に、夜まで待ってもらえれば話しに行ったのに」 「いいの、ちょっとバスケットもやりたいなーって思ってたところだったから」 「はあ?」 西山はぐんと伸びをしながら、どこへ行くでもなく歩き出した。 「娘を嫁に……いや、ちょっと違うかな」 ふとつぶやいた言葉は、やはり野崎には理解できなかった。 「ちょっと、負けられないですね」 「ちょっと、よくわからないですね……」 気合の入ったような高橋の言葉に適当に乗っかってみる。野崎はだるさに耐えきれず座り込んだ。眠気がどっと押し寄せてくる。 「野崎さん、起きて……」 「んー……」 高橋の心地いい声が耳に入る。気持ちいい風も吹いていて、ふと、高橋の手の甲が頬に触れた。もうちょっと、と口からこぼれそうになる。 「ハイ、じゃあみんな集合!」 パン!と、鈴木の軽快な手を打つ音にはっと意識が引き戻される。高橋を見ると、やはり笑っていた。野崎も苦笑する。ああいつもの日常に戻ってきた、と思ったからだ。 立ち上がると、眩暈がしそうなほど太陽が近くなって、少しだけ目を細めた。 END |