深呼吸 33


  小さな入り口に無理やりねじ込むようにして、その車は公園内に侵入してきた。頼りない外灯より、ぽっかりと出た月の明かりが白い車体を照らしている。
「これ、なんですね」
 高橋に問われて、野崎は無言で頷いた。腰が引ける。心の中の弱い自分を打ち消すように、しっかりと横に立つ高橋を見る。大丈夫だ。大丈夫。
「もしやばくなったときはすぐ逃げてくださいね」
「お前置いて一人で逃げろって?」
「……言い方変えましょう。もしやばくなったら、一緒に逃げてください」
「……わかった」
 車はブレーキを掛けながら方向転換すると、草も生えていない固い地面から土ぼこりを上げて停車した。車の向こう側の砂場からさりげなく目を逸らす。すると、代わりに目に入った運転席から男が下りてきた。
「やあ、こんばんは!」
 変な汗が全身から吹き出す。顔が外灯の影になってよく見えないが、彼が谷口だということはすぐわかった。この上ずった声も、車から降りてくる姿も、どこか自信なさげな仕草も、記憶の彼方に追いやったものと一致した。
「野崎さん!」
 肩を掴まれて横を向くと、自分を見つめてくる高橋と目があった。そうだ、今は一人じゃない。高橋がいるのだ。急に冷静さを取り戻して頷く。そうしているうちに、ワゴンから次々と黒い服の男たちが降りてきた。一年前に見たときは真っ黒だったことしか覚えていなかったが、よく見てみると別段特殊な服を着ているわけではない。無地の黒いパーカーにジーンズというだけのことだった。
「三人……」
 高橋が微妙な表情で数えて、ポケットに手を突っ込んだ。今にも走り出すのではないかとひやひやしたが、ひとまずは様子見と言うことらしい。じっとしていると、思いがけず冷たい風がひゅうと吹く。そこで谷口は、再び口を開いた。
「久しぶりだね、野崎君。君にずっと会いたかった」
 身震いを隠すように、野崎は腕をさすった。この男にかけてやる言葉は残念ながら持ち合わせていない。
「あんたが谷口か」
 高橋が挑戦的な口ぶりで乱暴に言い放つ。そのセリフに谷口は僅かに眉を上げた。
「……ふうん。彼は来てないんだね。逃げたかな?」
「こっちの質問に答えろよ」
 さすがに高橋も冷静だ。冷たく言い放つと、谷口は口元に笑みを浮かべる。
「そうだよ、僕が谷口だ。君は高橋君だね」
「……なんで、」
 知ってる、と言いかけたが、高橋が自分の耳をちょんちょんとやったので気づいた。そうだ、部屋に盗聴器を仕掛けたのもこの男だった。
「なんで盗聴なんてまどろっこしいことしたんだ。さっさと呼び出せば済む話じゃねーか」
 それには同感だった。あの日、あの夢を見てからだ。すべてがおかしくなった。住んでいた場所が割れていたのは確かなのに、再び現れてからこの一か月間直接会いに来なかったのは謎だ。
「君がどんな生活をしてるのか、純粋に興味があったんだよ」
 白々しいと思ったが、同時にぞっとする。高橋は相変わらず厳しい表情で谷口を見据えたまま、ふんと鼻を鳴らした。
「頭いかれてるんじゃないのか」
「そうだね。……そうかもね」
 谷口は相変わらず楽しそうな様子を崩さなかった。そして一歩踏み出すと、野崎の表情をじっと窺う。
「さて。残念だけど、今日はゆっくり話をしに来たわけじゃないんだ」
「奇遇だな。こっちもそのつもりだ」
 高橋はあわてるでもなく、あくまで堂々と挑戦的だった。その様子を横目で見ながら、野崎は大きく息を吸った。
「あのときに撮った、ビデオ……」
 声が震えないようにするのは大変だった。
「……あれを、処分しろ」
「ああ、安心してよ! この前のはちょっとした脅しで、本当のテープは僕しか持ってないんだ。お気に入りだから」
「ふざけんなよ!」
 反射的に叫んだのは高橋だ。彼が一歩踏み出すと、谷口の後ろに控えていた黒服二人が警戒して動いた。
「処分しろって言ってんだ。聞こえなかったか」
「嫌だと言ったら?」
 何か言い返す前に動き出した黒服に、二人は身構えた。高橋は野崎をかばうように前に立つと、小声で何か囁く。
「え、なに……高橋?」
 高橋の靴が砂を噛んで、勢いよく飛び出す。反射的に野崎も走った。黒服が追いかけてくる。ああ、これ、最近やったな。……鬼ごっこ。
 ――ちょっと、粘ってください。高橋の言葉を反芻する。それが何を示すのかはわからない。谷口は逃げ回る自分たちを眺めながら笑っていた。その手には、赤い点。小型のカメラだ。
「くっそ!」
 目がぎらついている。これもパフォーマンスなのだ、きっと。
「捕まった者が鬼に犯される鬼ごっこだ! ああ、たまらないなあ! きっといい画になる」
 また見世物にする気か。飛びかかって殴りたい気持ちと近づきたくない頑なな恐怖心がごちゃ混ぜになって、野崎の頭はパンク寸前だった。広い公園をがむしゃらに走って、しかし絶対につかまらないという意志は強く持っていた。だんだんと息が上がってくる。
 高橋を見る。彼は追いかけられながら、谷口に向かっていく。何を考えているんだ。
「高橋!」
 野崎は足を止めた。
「んなばかなことさせるか、よ!」
 チリ、チリ、チリン!
 高橋が谷口のカメラをつかんだのと、黒服が高橋の腕をつかんだのと、――ついでに不釣り合いな自転車のベルが高らかに響いたのは、ほぼ同時のことだった。
 その場にいた全員が公園の入口に目を向ける。きちんと整備された自転車の、真新しいライトに照らされて目を眇める。そこにいたのは……。
「……飯田?」
「野崎!!」
 正義のヒーローよろしくこの危機的状況に現れたのは、飯田聡史その人だった。咄嗟に団子状態になっていた彼らを振り向くと、真ん中の高橋がにやりと笑っていた。もしかして、知っていたのか。
「飯田……ああ、岡野の息子か……一度、会ったことがあるね」
 谷口は慌てるでもなく、むしろ怪訝そうな口ぶりでそう言った。高橋は掴んだ谷口のカメラをまるでバスケットボールのように奪い取ると、流れる動作で飯田にパスした。ロングパスは誰にもカットされることなく、飯田の手の中に落ちる。
「ナイスパス」
「子供の遊び道具じゃないんだよ。返してくれないかなあ」
 あくまで口調はそのままだったが、表情は厳しさを増している。
「飯田、なんでここに」
 何も知らなかったこちらにとっては重要な問題だ。しかし、野崎が疑問を投げかけると同時に、さきほどから追っかけっこの相手だった黒服に後ろから腕を掴まれた。ちかっと頭が明滅する。冗談じゃない、捕まったらただの足手まといだ。
「離せ!!」
 大した距離は走っていないはずなのに、いつのまにか汗だくだった。野崎ががむしゃらにもがくと、それに気づいた飯田が何かを放り投げた。あっ、という、誰かの短い悲鳴が聞こえる。
 咄嗟にしゃがんだ。頭上をかすめたのは、さっき奪ったカメラだった。
 がちゃんと音がして、それは黒服の肩のあたりに命中していた。さすが飯田、ボールコントロールは最高だ。隙を見て逃げ出すと、黒服は肩を押さえながらもやはり追いかけてくる。しかし、間合いは取ることが出来た。十分だ。
「あんたに話をしに来たんだ、島木さん」
 飯田は谷口に向かって、そう言い放った。谷口の顔色がすっと変わる。野崎はまだ状況が飲み込めずに、それでも黒服が追いかけっこをやめて立ち止まったことによって、エンドレス・ランからは解放された。高橋のほうも、もみあっていた黒服が大人しくなったので、乱雑に手を振りほどいている。
「……なに、なんなの」
「それが本名か、谷口」
 高橋がそう言ったことでようやく合点した。しかしなぜ、飯田が彼の本名など知っているのだ?
「岡野から聞いたのか」
「そう。――これも」
 飯田がポケットから取り出したのは、小さな8ミリビデオのテープだった。野崎はすぐに勘付いて、全身が総毛立つ。しかし同時に、谷口の様子も変わる。その目が今度こそぎろりと歪み、全身から怒りが滲み出したのだ。
「お遊びが過ぎるな、……岡野の息子」
「ちょっとね、俺もあんたが大っ嫌いなもんで」
「同感です」
 飯田が谷口に近づくと、野崎の横にいた黒服がぴくりと反応した。しかし何を判断したのかその場から動こうとはしなかった。保身のためか、行動することを迷っているようでもある。その間も飯田は谷口との距離を詰め、とうとう2メートルほどまで接近した。
「飯田……」
「野崎、ごめんな。……えっと、なんていうか、俺的にもけじめっていうものがありまして」
 改まった調子で話す飯田の表情は、しかし真剣そのものだ。
「いいよ……俺もそんな感じだし」
「あとでちゃんと話すから」
 その言葉を野崎は信用した。二年来の親友の言葉を、信用しないはずがなかった。
「おう」
 こんな状況なのに笑顔がこぼれた。形勢逆転。そんな言葉が頭に浮かぶ。今はこんなに心強い。
「君のお父さんが僕の部下だってことを忘れてないかい?」
「ああ、そうでしたね。……たぶん、明日からは違うと思いますけど」
「…………まさか」
 谷口は苦虫を噛み潰したような顔をしてから、高橋のところにいた黒服を指差して叫んだ。
「こいつらをとっ捕まえろ! テープを回収するんだ!」
「……はい!」
 一瞬の間の後、高橋と野崎のところにいた黒服が走り出し、一斉に飯田に向かう。野崎はじっとその様子を眺めていた。なぜだか、飯田が自信に溢れる顔をしていたから。
「はははっ、奪ってみろよ!」
 飯田はくるりと踵を返し、黒服に追いかけられながら公園の外に出た。その際に高橋に向かって小さな白いものを投げたのを野崎は視界の端でとらえる。高橋はそれを軽く受け取り、弄ぶように手の中で転がしながら、谷口に笑いかけた。
「やっとゆっくり話ができますね、島木さん?」
 谷口はさっきと一転して額に汗を浮かべながら、無理に笑おうとして失敗した。野崎は冷えた心の中で、なぜこんな男にずっとおびえていたのか不思議に思っていた。この男はおそらく一人では何もできない、小さな人間じゃないか。
「君たちの狙いはなんだ。こんなことまでして……」
「狙い? はあ、聞いてなかったのかよ。ビデオの処分、それから――」
 高橋がこちらを向いた。野崎は恐る恐る一歩を踏み出す。高橋がいる。怖くない。足もふるえない。大きく息を吸う。
「一発、殴らせろ」
 高橋は一瞬呆気にとられた顔をして、すぐに破顔した。
「だ、そうです」
 おかしくてたまらないといった表情だ。谷口はその欲求に対して何も言わなかったが、愉快に思っているはずはない。ここで反撃してこないのは単に分が悪いからだろうと推測する。
「残念だけど、まだ白旗は上げられないな」
「へえ」
 谷口は切羽詰まった笑みを浮かべながら、じりじりと後ずさりする。
「君らは勝った気でいるようだけど、僕がまさかあんなテープ一本だけにデータを残してると思うかい?」
「思わない。これだろ?」
 高橋がさっき飯田から受け取ったものを谷口の前に掲げて見せた。白いUSBだ。飯田が持っている物によく似ている。
「な! なんで、そ、それが、ここに……!!」
 明らかな動揺を見せる谷口に、野崎はまた一歩近づいた。谷口は高橋の手の中しか見ていない。また一歩。高橋はこちらの動きがよく見えているだろう。しかし何もせずに、USBを見つめて――投げた。
「あっ」
 まるでスローモーションのように、頭上を越えて飛んでいくUSBを目で追いながら、谷口は後ろを向いた。野崎は一気に彼との距離を詰めて、背中から襟ぐりをつかむ。
 谷口はこちらを振り返ろうとする。それもやけにゆっくりと見えた。野崎は狙い澄ましたかのようにぴったりと、彼の後頭部を、思い切りグーで殴りつけた。ぐ、とくぐもった声が聞こえる。
「野崎さん!」
 呆気なく、谷口は地面に倒れた。瞬間現実感が戻ってきて、同時に全身の力が抜けてその場に尻もちをつく。高橋がすかさず近寄ってきて、もう谷口などどうでもいいという風に抱きしめられた。
「高橋」
「俺、今最高の気分です、野崎さん」
「……俺は……、よくわかんね」
 本当に頭が真っ白だった。上着越しに伝わってくる高橋の体温が心地いい。
「く、そ…………」
「あんたが何してきたのか、俺は全然知らないけど」
 谷口が起き上がったのだろうか。高橋が彼に向かって何か言っている。
「だから本当はこんなのどうだっていいんだけど」
 再び拾ったUSBをまた投げる。谷口に返したのだろうか。
「それ、持ってさっさと帰れよ。どっちにしろ、あんたもう終わりだと思うぜ」
 憐れむような静かな声だった。谷口の声は聞こえない。野崎は目を閉じた。謝られなくてよかったと思った。ごめんなさいなんて言われても、あのことが消えるわけじゃない。きっとこれからもこの暗闇に怯えるのだろうし、夢にだって見るのだろう。
「野崎さん」
 やがて車の音がして、静寂が戻ってきた。冷たい風が吹いている。それでも、心は温かかった。
「帰りましょう」
 ――たぶん。一人で怯える夜は最後だ。




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