深呼吸 31


 土曜日、野崎はさくらに頼み込んで303号室の鍵を借りた。寺島は朝も食堂に顔を出さなかったらしい。さくらも心配しているようで、普通だったら許されない強行突破も、彼を食堂に連れてくることを条件に承諾してくれた。
 扉の前には、野崎と高橋、そして西山がいた。飯田は父親と会うと言っていたから、恐らくもう出かけたのだろう。
「おい、寺島! いい加減ここ開けろよ!」
 西山がドアを叩きながら呼びかけるが、やはり反応は帰ってこない。かすかに布ずれの音が聞こえるから、やはり部屋の主はここにいるようだ。野崎は合鍵を握りしめると、西山を制してドアの前に立った。息を吸い込む。
「寺島、お前に話がある」
 反応はやはりないが、僅かに部屋の中が静かになったような気がする。野崎は続けた。
「谷口のことだ!」
「俺は知らない!!」
 間髪入れずに怒鳴り声が返ってきた。西山が横で「誰?」と聞いてくる。詳しいことは後だ。
「入る」
「容赦ないですね、野崎さん」
 高橋は、その言葉とは裏腹に楽しそうな顔をしていた。野崎が鍵を回すと、いとも簡単にドアは開いた。予想通りドアチェーンがかかっていたが、こんなもの時間稼ぎに過ぎない。
「なっ……なんで、やめろよ、くるな!」
 このドアチェーンは隙間から手を伸ばして外すことができることを、寮生の誰もが知っていた。ずかずかと上り込むのは簡単だったが、何となく良心がとがめて靴を脱ぐ。
「……野崎さん、律儀ですね」
「うるせ」
 寺島の部屋は当たり前だが初めて入った。普段はどうなのか知らないが、物が床に散乱していて足の踏み場もない。見回すと、ベッドの脇で丸くなった寺島がいた。野崎はその塊を睨みつける。今や彼は袋の鼠だった。激しく動揺しているのがすぐわかったのは、落ち窪んだ瞳が明らかな恐怖を訴えていたからだ。それは野崎に対してというより、その先を見ているようだった。つまり――谷口を。
「俺は、俺は、知らなかったんだ……あいつが何やってるかなんて、全然知らなくて、俺は! ただ! 西山君を助けようとして……!」
「おい、なんだよそれ!」
「いいから、西山」
 野崎は今にも殴りかかりそうな西山を制すると、寺島に一歩踏みよった。驚くほど頭は冷静だ。そう、ここには、喧嘩をしに来たわけでも、彼の行いを糾弾しに来たわけでもないのだ。
「寺島、お前が何やったか、とりあえずどうでもいい。いや、よくないけど……とにかく、俺はあいつに会いたいんだ。意味、分かるだろ?」
「……」
「あの」
 そこで、じっと見ていた高橋が隣でおずおずと手を挙げた。動作の割に、その眼は真剣な色を帯びている。
「あんたがやったこと、……詳しくは言いませんけど、犯罪なの、わかってますよね。いい加減被害者ぶるのやめてくださいよ」
「……」
「もう一度言うけど、俺たちは谷口に会いたい。寺島さん、あんたはあいつと連絡を取り合ってたはずだ」
「けっ……携帯は、電源切ってる」
「じゃあ出してもらいます」
 高橋は冷静なように見えて、心の中ではなかなか凶暴な虎を飼っていたらしい。躊躇なく寺島の襟首を掴んで引き上げる。おびえた目が高橋の目をはっきりと見つめている。野崎は止めるのも忘れて、その動作に見入っていた。寺島が緩慢な動作で右手を挙げ、ベッドの上を指差す。野崎はそこにごちゃごちゃと転がっているノートや文房具を探ると、乱れたシーツの皺に隠れるようにして黒い携帯電話があるのを発見した。
「あった」
 話の通り、ディスプレイは真っ黒だった。切ってある電源をつけると、勝手にメールの着信画面に切り替わる。
「ありました?」
「……ビンゴ」
 差出人の名前はなかった。無数の未登録アドレスから大量のメールが届いている。すべて件名はない。気の遠くなるような思いで受信ボックスに羅列するアドレスを見つめていると、高橋がそれを引き受けた。
「なあ西山、先にこいつ下に連れてってくれないか」
 野崎が何でもないような顔を作って西山を振り返る。彼は彼なりに何か思案しているのか、しばらくは難しい顔で黙っていた。
「……頼むよ」
 ダメ押しすると、ようやくいつものため息が聞こえてくる。そして彼はようやく困ったように笑って、
「ちゃんと後で説明してもらうからな」
 やはりいつものように明るく念押しした。
「おい高橋!」
「なんですか」
「未来の彼女候補なんだ。任せたぜ」
 こんな場でまでこの男の茶番に付き合ってやる気はない。無言で容赦なく脛を蹴ると、西山は大げさに痛がったが、高橋は複雑な表情をしていた。そのうちに西山は寺島の真ん前に向かうと、小声で何か言って立ち去った。すると、いったい何を言ったのかあんなに強固だった寺島がすっくと立ち上がり、まるではしゃぐ子供のようにそのあとをついて行くではないか。ドアが閉まると、雑然とした部屋の真ん中に男が二人突っ立っているだけになった。野崎はドアを見つめながら呆然と息をつく。
「……別に、彼女候補じゃねえよ」
「…………なに言い訳してんですか」
 高橋は呆れ半分に言ったと思うと、野崎の首を引き寄せて軽くキスをした。すぐにそっぽを向いたその顔が妙に子供っぽく見えて、気づかれないようにこっそり笑う。
「さて。……このメールだけど」
 野崎が切り出すと、高橋はうなずいた。
「あいつだと思います」
 高橋が何件か開いたメールの文面はばらばらだった。中には内容が大よそ被っているのがいくつかあって、『会いましょう』『連れてきてください』『これが最後』といったぼんやりとしたものが大半だった。既読のメールはひとつも残っておらず、どうやらその都度削除していたらしい。
「全部、アドレス違うけど」
「PCのフリーメールですね。こんな手の込んだことするなんて」
「連れてきて、って」
 野崎は嫌な予感からそっと呟くと、途端にパーカーに包まれて暖かいはずの肌がぞわぞわして顔を顰めた。高橋が感情の読めない顔でじっと見つめてくる。
「……本当に、会うんですか」
「ああ」
「時間と場所の指定がないってことは、いつも決まった待ち合わせだったってことですね」
「公園なのか」
「……たぶん」
 野崎は意識の向こうで、先日久しぶりに目にした公園の輪郭を思い出そうとした。夜の暗闇、たった一つの外灯の明かり。それらが脳裏に鮮明に蘇って、あとは砂場の冷たい感触。
「行くよ。どんだけ心配されても、行く」
 すくむ足を奮い立たせるように宣言する。高橋は先回りして言いたいことを指されてしまったからか、僅かに開けた口を閉じた。
「ついていきますから」
 野崎は高橋のしっかりとした意志を言葉として受けながら、魔物に立ち向かう勇者の気分をしばし味わった。心強い。
「心強いよ」
 正直な気持ちをそのまま吐き出すと、彼は嬉しそうに、しかし当たり前だというようにニッと笑った。





 夕食時には、さくらにさんざんお礼を言われた。預かっていた鍵は返し、しかし寺島の携帯電話はもう少し借りておくことにした。西山はもう何も追求してこなかったが、やはりその眼は「あとで」と訴えているように思った。飯田はまだ帰ってきていないようだった。少し不安に思いながらも、8時には夕食を終え、高橋とともに外に出る。重い足を引きずって夜の道を歩き、高橋のリクエストでコンビニに寄った。
「何買ったんだ」
「まあ、ちょっといろいろ。コーヒー、どうぞ」
「どうも」
 熱い缶コーヒーを高橋に受け取る。正直ほっと一息という気分ではなかったが、気を紛らわすためなのだろう。プルタブを開けると、僅かに甘みのあるコーヒーを喉に流し込んだ。
 公園が近くなると、二人は自然に無言になった。公園の外灯の明かりが見えてきたところで、高橋が手を握ってきた。缶コーヒーで暖まったのか、思いのほか温かい手に包まれて、野崎も振り払うことはしなかった。
「……誰も、いないな」
「まだ9時まではちょっとあります」
 誰もいない公園の敷地に入るとき、野崎はいつの間にか震えていた。生理的嫌悪が何度でもよみがえってくる。高橋は砂場の方には近づかず、少し離れたベンチの上に座った。
「やっぱ、きっついな、ここは……」
 野崎が弱弱しく笑うと、高橋がその顔を覗き込んできた。
「それなら、場所忘れるくらいずっと俺を見ててください」
「なに、それ。……歯が浮きそー」
 まるで女の子でも口説くようなきざなセリフに、思わず吹き出してしまう。高橋はそれが不満だったのだろう、少し恥ずかしげに口をとがらせた。
「笑わないで下さいよ、こっちは真剣なんだから」
「ごめんごめん」
「……話、しましょう」
 唐突に切り出した高橋が、空を仰いで息を吐く。夜の静寂は木々がざわめく音や風の音に少しだけ色付けられて、それでも静かに二人の空間を埋めている。それが本当に場所を忘れるほど心地よかった。
「いいよ。何の話?」
「いろんなこと、話しましょう。好きな食べ物とか、好きなスポーツとか」
「好きなスポーツはバスケだろ」
 高橋はもちろんと答えて、野崎さんは、と聞き返してきた。
「俺は……単純に走るのが好きかな。マラソンとか」
「へえ…………なんか意外です」
「そーか? ああ、でも鬼ごっこは別だぜ。あれは瞬発力も必要だから」
 以前早々と捕まってしまった金曜会での鬼ごっこを思い出して、言い訳をしてみる。高橋はただ「そーすか」と笑っていたが、信じたのかはよくわからなかった。
「俺は頭でいろいろ考える方なんで」
「おいおい、それじゃまるで俺が何も考えてないみたいじゃないか」
「今度、飯田さんと三人でバスケしましょうよ。スリーオンスリー」
 高橋の楽しそうな言葉に、一瞬あっけにとられてしまう。本当に、ただの世間話をしているようだ。今公園にいることもあの男を待っていることも全部夢で、ただ「今度」の約束をしに来ただけのような、そんな戯れのやり取りだった。
「……やだよ。俺だけ除け者になるじゃん」
「あはは」
 あまりにも鷹揚に構えている高橋に、野崎は少し不審を抱いて、その胸のあたりに手を当てた。そこから命のリズムが流れてくる。自分のものと比べてみると、ほとんど変わりはなかった。つまり、強がり。
「なんですか……」
 高橋が珍しく狼狽えているので、楽しくて思わずキスをした。すると、彼はさらに混乱した表情を浮かべでいる。
「俺、高橋だったら大丈夫かもな」
「野崎さん……」
「ただ、そう思う原因はあいつじゃないって、……それだけは、絶対そう思いたいんだ」
 高橋は何を言えばいいのかわからないのか、それでも何か言おうとしたのか口を開けた。
「……――あ」
 そして、少し遠くからエンジンの音が聞こえてきたのも、そのときだった。野崎は唾をのみ、高橋は汗ばむ手を強く握った。そして、ずっと握られていた手をほどき、立ち上がって前を見据える。その堂々とした横顔から彼のひときわ強い意志が伝わってきて、野崎は胸がいっぱいになるのを感じた。
 そして場違いにも、切ないほど強く思う。生意気で、正直で、馬鹿で優しい後輩。
 ――そんな彼が、高橋が好きだ、と。





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