何度電話したかわからない。飯田はさっぱり反応のない携帯電話を閉じて、食堂から借りてきた電話帳を開いた。 「若狭スタジオ……あった」 父がこの映像スタジオで働いていることは知っていた。仕事をしている姿はほとんど覚えていないが、母と離婚する前はテレビカメラマンだったと聞いている。何があって所属を変えたのか、なぜ母と離婚したのかもわからない。気を使っているつもりで、その実本当のことを知ろうともしなかった自分を飯田は恥じた。 息をついて、携帯電話と電話帳の数字を交互に見つめる。発信すると、僅か2回のコールで相手は出た。 『お電話ありがとうございます、こちらは若狭スタジオです』 受付係といったような、若い女の声だった。唾を飲み込んで「もしもし」と言う。声がかすれてしまった。 「あの……そちらに岡野正はいますか?」 久しぶりに口にする父の本名に緊張が増す。電話の相手は困惑したようで、一瞬間を置いた。 『どちら様、でしょうか?』 「飯田聡史といいます。正の息子です」 『……少々お待ちください』 愛想のいい女の声が保留音に切り替わる。飯田は緊張を強くして、同時に落ち着けと自分に言い聞かせる。少しして、メロディがぷつりと切れた。 『……聡史』 重い声だった。一昨日のことがやはり見間違いではなかったことを直感して、飯田は気を引き締める。 「父さん」 色々な感情が混ぜこぜになって言葉が詰まったが、唾を飲み込んで言葉を続ける。 「話があるんだ」 『……そうだな』 父はそれだけ返すと、あとは会ってから話すつもりなのだろう、待ち合わせの場所と時間だけ告げて一方的に電話を切った。職場の電話を私用で使うことに抵抗があったのかもしれない。 何を話されるのか、大方予想はしているといった口ぶりだった。僅かに抱いていた希望が打ち砕かれる音を胸の奥で聞きながら、自分の腕時計を覗き込む。 「あと1時間か」 飯田は電車の時刻表を取り出して時刻を確認した。父が指定したのは最寄駅から三駅ほど離れた駅前のコーヒー店だった。不思議なのは、父が勤めているはずの若狭スタジオはもっと遠くにあるということだ。スタジオの電話に出たので出先ではないはずだが、それほど聞かれたくない話なのだろうか。胸がもやもやして気持ちが悪くなる。しかし、じっとしている暇はない。すぐにぼろぼろの駐輪場に向かい、自分の自転車を探した。以前野崎が鍵をかけるのに手間取っていたことを思い出して、こんな時にもかかわらず少し口元がほころんだ。飯田の自転車はこの春に整備に出したばかりなので、もちろん鍵もスムーズに回る。 駅までは25分たらずでついた。電車を使うことは珍しいので、慎重に路線図を確認して切符を買う。ホームに出ると、たった今電車が到着したところのようだった。飯田は人の流れに乗って乗車し、やはり15分もたたないうちに到着した。 「西口、か」 目当ての店はすぐに見つかった。指示されたとおりに階の客席へ向かう。見回すと、黒を基調としたお洒落な客席の一番奥に見知った男が座っていた。飯田が歩いていくと、コーヒーをじっと見つめていたその顔を上げる。 「久しぶりだな、聡史」 「……ああ」 父は茶色のジャケットにジーンズという格好で、仕事途中なのか携帯電話をちらちらと確認していたが、息子の姿を認めると懐かしそうに目を細めた。その視線をどう受け止めるべきか飯田は迷って、向かいに腰掛ける。 「コーヒー、飲むか」 「……いや、お茶で」 コーヒーはあまり好きではない。小学校で家から出て行った父がそれを知らないのは当たり前だが、飯田の返しを聞いて「ああ、聡史は昔からお茶が好きだったもんな」と言ったのには少し苛々した。 「母さん、元気か?」 「元気だよ」 なぜそんなことを聞くのか疑問だった。母と父が連絡を取り合っていることを飯田は知っていた。今までその理由を尋ねたことがなかったのは、ひとえに子供心で両親の秘密を守るつもりだったからだ。飯田が家を出た後母は一人暮らしになったため、子供に気兼ねをする必要はなくなったはずだ。 「そうか、よかった。……学校はどうだ」 「うん、楽しいよ」 「そうか」 父はそう言ってうなずいた後、視線を窓に向けた。そのあともぽつぽつと質問を投げかけるだけで、なかなか本題は切り出さない。そのうちに熱いお茶が運ばれてきて、その間がさらに沈黙を誘った。まるでここまで来て話すことをためらっているような、そんなじれったい空気だった。 「あのさ」 耐え切れずに、飯田はそう語りかけた。コーヒーを口に運んでいた父の手がぴくりと止まる。 「昨日のこと。あれ、何」 単刀直入に訊く。父の顔を見るのは正直嫌だった。それでも、今から話すことが嘘か真かを見極められるのは自分しかいないのだ。 「……聡史」 「…………」 恐る恐る見た父の顔は、ついにこの時が来てしまったというような、重く疲れた顔だった。 「うん……お前には話さなきゃいけないよな。……そうなんだ、どこから話そうか……」 「最初から最後まで、全部だよ」 父は息子の勢いに押されたというよりは、そうなることを予期していたかのようだった。弱弱しく笑ったかと思うと、息をついて半量ほどになったカップの中を見つめる。 「……父さんが局付きのテレビカメラマンだったってことは、知ってるだろ」 「あんまり覚えてないけど、なんとなく」 「局付きっていっても、サラリーマンと一緒だ。うちはずっと金に困ってて、少しでも手当が出るようにって、父さんと母さんはそれで離婚したんだよ」 「は……?」 衝撃的な告白に飯田は思わず固まる。しかし、よく考えてみればありえないことではなかった。むしろ、そう考えれば父と母が仲が良かった理由も、よく会いに来てくれていた理由も納得できる。そして、金の話――子供に言うことができなかった事情は、そういうことだったのだ。 「お前を育てるためにな、今のままの給料じゃまずいってわかってたよ。それで困ってるところを助けてくれたのが、島木さんだったんだ」 「島木?」 「島木さんは仕事で世話になってた先輩で、彼が独立して作ったスタジオは波に乗ってた。そこに来ないかって言われてさ」 「それが、若狭スタジオ?」 「……聡史。お前が俺に話があるっていうなら、あの人の話以外無いと思ったんだよ」 飯田は直感的に確信した。島木――それが奴の本名か。 「Tって、あいつは名乗ってた」 「T……か」 考え込む暇さえ惜しかった。前のめりになって父に迫る。 「父さんは、あいつが何やったか、知ってるのかよ」 思わず唾を飲み込むと、父は無言で目線を落とした。 「知ってたよ。……軽蔑するか? 俺はずっと知ってて、それでいて知らないふりをしていた」 「……なんで」 「ようやく就職したテレビ局をやめて先輩のスタジオに滑り込んだんだ。もう後がなかった」 父は、敢えて「金が必要だった」とは言わなかった。子供を大学に行かせる金など、なかったはずだ。そんなに家計が苦しかったのなら、どうして言ってくれなかったのか。……結局、自分のことを思ってなのだということは分かっている。飯田は歯がゆさに眉を顰めた。 「表向きは普通のスタジオだし、裏ビデオの制作だってほとんど島木さんの趣味みたいなもんだ。関わらなければ大丈夫だと思ってたんだけどな」 「じゃあなんで、俺に野崎のことを聞いてきた?」 以前の電話のことだ。父は一瞬何かを口にしかけてはっとつぐむと、ウエストポーチから厚みのある茶封筒を取り出して、テーブルの上に置く。 「……これは、あの人がお守りみたいに大事に仕舞っていたビデオテープなんだが、それと一緒にこの写真が入っていた」 茶封筒から小さなビデオテープと、一枚の写真が取り出される。そこに写っていた人物を見てはっと顔を上げると、目があった。 「野崎……と、俺。こんなの、いつ……」 撮られた場所は大学の構内だろう。何気ない会話の瞬間に、まるで盗み見でもされたような不快感がせりあがってくる。写真の裏に入っていた日付を見ると、それほど古いものではないようだ。 「俺は焦ったよ。知らないうちに家族が探られてたんじゃないかってね」 「このテープは」 「中を見た」 心臓がはねて、飯田は父の顔を見た。父は憐れむような表情で写真の野崎を見ている。 「……この子なんだろう」 「……」 何も言うことができなかった。急に迫ってきた現実にどうしたらいいかわからない。何も書かれていない真っ白なラベルを見つめながら、飯田は汗ばんだ拳を握りしめる。 「このテープをあいつが大事にしてたってことは……」 「もちろん、市場に出回ったりはしてない。それどころか、他の人に見せる気は全くないようなんだ」 「じゃあこれはどうやって?」 問うと、父は苦笑して「秘密」とだけ言った。しかし、聞きたいことはほかにもある。 「昨日はなんであそこに来た?」 「ああ……。島木さんが情報をもらってる男がいるってことを話しててな。それでずっと気になってたんだ」 寺島のことだろう。いったいどうやって二人が知り合ったのかは知らないが、あの顔を思い出すだけで苛ついてくる。 父は続けた。 「そしたら昨日急に、その男を連れてこいと部下に命令した。その部下に無理を言って同行させてもらったんだ」 「なるほどね……」 「俺はずっと不安だったんだよ。その男が、聡史……お前じゃないかって」 「っ……そんなことするわけないだろ!」 誰があいつに野崎の情報を流すものか。激昂すると、父は素直に「すまん」と頭を下げた。そうだ、彼は何も息子の悪事を疑っていたわけではあるまい。 「……心配だったんだ」 「……悪かったよ。怒鳴るつもりじゃなかった」 父がコーヒーのおかわりを頼んだタイミングで、飯田は立ち上がった。もうこれ以上話すことはないだろう。 「父さん、このテープもらってもいいか」 「そのつもりで持ってきたんだ。……聡史」 小さなテープと一緒に写真も鞄の中に入れて、立ち上がる。受け止めた父の視線は初めよりずっと堂々としていた。 「俺もそろそろけじめをつけるよ。俺もお前も、いつまでも子供じゃないもんな」 けじめの内容を、飯田は聞こうとはしなかった。今度は遠慮からではない。ただ何となく、そうした方がいいような気がしたのだ。 「これも持っていきなさい」 差し出されたものを受け取る。飯田が持っているものによく似ている、白いUSBだった。 「これは……」 「たぶん、あの人の大事なものが入ってる」 「どうやって……それも『秘密』か」 言うと、父は少し微笑んだ。 「ああ。ほら、もう行きなさい。お金はいいから」 飯田は確信していた。父はスタジオをやめる気だ。 「……あのさ、最後に一ついいかな。ブラームスのCD 、まだ持ってる?」 「ブラームス?」 母が好きで、よく車内でかけていたCD。その音色を思い出す。同じように懐かしい日々を思い出したのか、父がふっと優しい顔をしたのを、飯田は見逃さなかった。 「……よく聞いてるよ。デスクに置いてるんだ」 「そっか」 ――ああ、良かった。 飯田は父に背を向けると、今度こそ振り返らずに歩き出した。 島木という男はとことん悪趣味らしい。ブラームスのCDも勝手に持ち出したのだろう。手の中のUSBを握りしめる。あの男の居場所を聞けばよかったのだが、今は父が関係者ではなかったことが分かっただけで十分だ。あとはこっちで決着をつけるしかない。 日が高く昇っている。飯田は少しあたりを見回し、近くのインターネットカフェに足を向けた。 |