深呼吸 30


 すっかり日も暮れた後に夕飯を食べて、午後9時、野崎は高橋の部屋を訪ねた。
「さぼりですか、野崎さん」
 開口一番、そう言われて野崎は目を丸くした。一瞬何のことかと思って、すぐに金曜会のことだと思い至る。
「ああ……まあ、ちょっと」
「飯田さんと何してたんです?」
 高橋の棘のある言い方に思わず怯んでしまう。そうだ、飯田も一緒に休んだのだ。二人が一緒にいたということは高橋にはお見通しらしい。さて、どこまで話したものか。野崎はここまできて決心が揺らいで、少々沈黙した。
「……すみません。別に喧嘩売ろうっていうわけじゃないんです。上がってください」
 高橋は玄関に立ち尽くした野崎をどう思ったのか、軽く頭を掻きながら部屋に招き入れた。つけっぱなしのテレビが夜のニュース番組を粛々と流している。
「……寺島と、会ったって本当か」
 今度は高橋が驚く番だった。勢いよく振り返って、しまったというような顔をする。野崎は「お前のことだから」と切り出した。先のショックに比べれば、この辺りは取り乱すほどでもない。
「俺には黙って犯人を捕まえるつもりだったんだろ?」
「寺島が、喋ったんですか」
 高橋はすっかり固い顔になっている。野崎は呆れた顔で、
「文脈ってもんを考えろよ、高橋」
 言ってやった。さすがに思い至ったのか「飯田さんですか」と、驚いた声が返ってくる。
「で、何を話しに行ったわけ?」
「そっちこそ、文脈を考えてくださいよ」
 さすが、狼狽えてもこの男の生意気は健在だ。野崎はため息をつく。
「そりゃ、大体はわかるけど。俺は具体的な内容を聞いてるわけ」
「……」
 高橋がだんまりを決め込むので、野崎は定位置のベッドに腰掛けて、白い天井を仰いだ。
「……Tが誰なのか分かりそうなんだ」
 一息に言ってしまう。高橋は予想外の連続なのだろう、「なんで」と言ったきり野崎を凝視した。
「飯田が持ってきた写真にあいつが写ってた」
「どういうことですか、それ……!」
「俺は、……たぶん飯田だって、よくわかってない」
 そのまま仰向けに倒れると、ニュースキャスターの声が静かに無音の空間を埋める。
「……Tの名前。谷口っていうらしい」
「お前……」
 谷口。寺島から聞いたのだろう。ということは、やはり寺島は駒にしかすぎない。黒幕はあの男なのだ。
「すみません。勝手に聞き出したりして」
 高橋は心底反省しているようだった。もともとそれほど怒っていなかったが、その真摯な態度に毒気も抜ける。
「結局、俺はあいつにもう一回会わなきゃなんねえのかな」
「そんなこと、俺が絶対させません」
 高橋の台詞に少し笑う。まるで、映画のヒロインにでもなった気分だ。
「とりあえず、代わりに一発殴ってもらおうかな」
「お安いご用で」
 高橋も肩の力がようやく抜けて、いつもの調子が戻ってきたようだった。不意にこちらに近づいてくると、蛍光灯の光がさえぎられて影が落ちる。そして、そのまま野崎に覆いかぶさるようにベッドに手をついたと思うと、自然な仕草で口づけられた。ほんの一瞬。気恥ずかしさに目を逸らしてしまったので、高橋がどんな顔をしているかはわからない。そういえば、キスされるときはいつも頭がぐちゃぐちゃで、しっかりと相手を見たことはなかった。
「……どんな顔してんの」
「え、なにが?」
「キ……あー、なんでもない」
 思わずおかしなことを口走ろうとしていた。慌てて濁したが、そんな自分に驚く。
 キスするとき、どんな顔をしているのか。馬鹿みたいな質問だ。高橋はもちろん、自分だってどんな顔をしているかわからない。一気に顔に血が上って、野崎は上半身を起こした。
「……キスは、嫌がらないんですね」
 高橋はくるりと体を返すと、ベッドに寄りかかって座り込んだ。何かを考えるようなしぐさだ。野崎は本棚に並べられた漫画と高橋の頭を交互にながめながら、そろそろなのかもしれない、と考えた。今まで考えるのを放棄してきた様々なことと、向かい合って決着をつけなければならない。それは一年前の決着であり、この男との、高橋との決着だ。
 キスの理由を問うたことはない。高橋も何も言わない。だが、考えなければいけないのだ。
「嫌いじゃないんだ、たぶん」
「……キスが? それとも、俺が?」
 高橋の顔は見えない。冗談めかした声に、テレビの笑い声が重なる。
「どっちも、かな……」
 それっきり、部屋は再び静かになった。もともと、共通の話題など無いに等しい。バスケ漫画の話か、件の話。知らないのだ。自分は高橋のことを、何も知らない。妙に納得して、同時にもやもやとした悔しさが込み上げてくるのを感じた。もう一度寝転がろうとすると、携帯電話のバイブレーションが沈黙をかき消す。ディスプレイを覗き込むと、着信だ。
「……わり、ちょっと電話」
 数秒迷った後、一言部屋の主に断って応答する。
「もしもし。どーしたよ」
『あのさ、野崎。寺島となんかあった?』
「……」
 いきなりの追及に野崎は閉口した。電話の相手は西山だった。随分困っているような様子が声から伝わってきたが、何かあったのだろうか。この質問の意図も気になる。
「いきなり何の話だ、それ。……直接は、何もねーよ。いつもどおり」
 返事を濁す。話は飯田にも高橋にも聞いたが、野崎自身は彼に接触していない。嘘はついていないだろう。
『そーか……。いや、ならいいんだけど』
「どうかしたの」
『うーん、どうってほどでもないんだけど』
 西山は前置きしてから、一旦言葉を止めた。人にデリケートなことを聞いておきながら、どうも煮え切らない態度だ。
『今どこ?』
「高橋んとこ」
 隠すこともあるまい。どこと聞くからには野崎が部屋にいないことを知ってのことだろうが、西山は感慨深く
『お前ら仲良くなったよな……。アタシさみしいわぁ』
 などとのたまっている。
「いいからよーけんを言え、よーけんを!」
 電話口でもこんなことをしていたらきりがない。野崎がせっつくと、西山はつまらなそうに本題に入る。
『ま、ちょうどいいから寺島のこと高橋にも聞いてみてくれよ』
「だから、その寺島がどうしたんだって」
 まどろっこしいやりとりに野崎が聞き返すと、急に出てきた寺島の名前に反応したのだろう、高橋が訝しげにこちらを見ているのが目に入った。
『実はさ、昨日の夜から飯を食いに来てないらしくて』
「は?」
 意図がつかみきれずに聴き返す。
「……実家に帰った、とか?」
 そんなことはないとわかっていた。二人の男が、彼と昨夜接触しているのだから。
『いや、外泊届も出てないし、どうやら部屋にこもってるだけらしいんだけど』
「さくらさんが心配してお前に?」
『うーん、さくらさんも心配してたけど、飯田が、さ、なんか妙に気にしてて』
「……ああ」
 寺島を連れて行こうとした車の運転手が父親だったと、そういう話だった。合点がいって思わずうなずいてしまう。
『ああって、お前なんか知ってるのか?』
 飯田は西山にも何も話していないようだ。もっとも、まだ何もはっきりしていない段階で話せるようなこともないのかもしれない。
「いや、飯田の様子もちょっと変だったなあ、って、思ってさ」
 慌ててごまかした。顔が見えないのが幸いだ。西山のように鋭い男ならば、野崎の嘘くらいすぐに見破ってしまうだろう。
『そうか。……そうなんだよな、あいつは自分からトラブル作るような奴じゃないし、原因があるとしたらたぶん向こうなんだろうけど』
「お前が尋ねてもドア開けないのか?」
『だから、困ってんだよ』
「中にいるってことはなんでわかるんだ?」
 この質問には西山は答えづらそうに、
『中から、暴れてるような物音が……聞こえてくるんだ。かと思ったらいきなり静かになったり』
 野崎は無意識に唾を飲み込んだ。その話が本当だとしたら、もしかしたら彼は恐れているのではないか。あの男たちがまた自分を連れ去りに来るのではないか、ということを。
「とりあえず、わかった。高橋にも聞いてみる」
『頼むな』
 電話を切ると、高橋が早く話せという顔をしている。野崎が西山から聞いたことをそのまま伝えると、高橋の顔は見る見るうちに曇っていった。恐る恐るというように立ち上がる。
「……俺の、」
「お前のせいじゃねーぞ」
 野崎は高橋の言葉を遮ると、ため息をついた。
「誰のせいでもないんだ、きっと」
 信じたいだけなのかもしれない。野崎も立ち上がると、高橋の肩越しに見えるテレビの極彩色をながめながら息を吸った。
「俺はあいつに会わなきゃいけない」
 左腕を掴むと、薄手の布越しに高橋の体温がじわりと伝わってくる。会わせないとは、もう言われなかった。
「それなら、俺はそいつを殴らなきゃいけない」
 代わりに高橋は真剣な表情でそう告げた。静かな決意の会話の後、優しく引き寄せられて背中に手を回される。抱きしめ返してやると、無意識に体が熱くなる。
「何も言わないでくださいよ」
「……ん」
 場違いな熱も、衝動も、少しだけ知らないふりをして、二人は抱き合った。




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