深呼吸 29



 何か隠している。野崎がそう感じたのは飯田に対してだけではなかった。
 昨夜、高橋が野崎の部屋を訪ねてきた。しかし、その様子がいつもと明らかに違っていたのだ。高橋は、野崎がドアを開けると随分安堵した様子だった。彼はなぜか「すみません」と謝ると、「別に用があるわけじゃないんです」と付け加えた。結局一言二言かわしてから自室に戻っていったが、本当に何の用もなかったのだろうか。やけに焦っていたようだったし、何かあったのは明白だろう。それを自分に言ってくれないということは、おそらくそれは「自分絡み」なのだ。それは確かだった。
「なんか……なあ」
 心配してくれるのは結構だが、何も話してくれないというのは歯がゆい。そして、加えて飯田の不審な行動である。堂々巡りに陥って、とりあえず聞き出すのは明日と決めて、その日は眠った。


 そして次の日、金曜会の直前に、事は大きく動いた。
「頼みがあるんだ、野崎」
 そう言って部屋に入ってきたのは、飯田だった。思いつめたような表情をしていて、しかしその眼にはしっかりと力が込められている。野崎はとりあえずソファに座らせようとしたが、飯田は頑なにそれを拒否した。
「野崎、これ、見てくれ。もし嫌なこと思い出したら、俺を思いっきり殴ってくれていいから」
 懇願とも呼べるほど必死な飯田の言葉を、野崎は理解することができなかったが、差し出されたのは一枚の写真のようだった。受け取って、わけもわからず眺める。日付は二年前だった。カメラ機材や照明機材を抱えたTシャツ姿の男女が十数名ほど写っている。スタッフか何かの集合写真のようだ。
「おい、いきなり渡されたって、何の写真……」
 飯田の顔を見て、野崎は緊張した。近くで見ると余計にひどい顔色だ。いつもの、何事も穏やかにこなしていく彼の姿はそこにはない。野崎は黙って、写っている人物を順番に眺めていく。右上に大柄な男、その隣はひょろっとした背の高い男……。どうすればいいかわからずに困惑していると、飯田は真剣な表情を崩さないまま、写真のある人物を指差した。
「……この人に、見覚えはないか?」
 飯田が指差したのは真ん中にいるカメラを抱えた男だった。その顔に既視感を感じて少し考える。――そうだ、飯田に少し似ている気がする。
「もしかしてこの人、飯田の、」
 言いながら、その隣に立っている人物が目に入る。野崎は言葉を失った。指先からざっと血が引く。茶色がかった短い髪。目じりの下がった、気の弱そうな笑みを浮かべている。
「……野崎?」
 急に黙り込んだ野崎を心配してか、飯田が声をかけてきた。
「…………」
 しかし、言葉が出てこない。野崎の視線は写真の人物に釘付けになったまま、動けなかった。あの夜がフラッシュバックする。
「野崎……おい!」
 肩をゆすられて、はっと気づいた。写真からどうにか目をはがす。
「……こ、こいつ……こいつだ」
 震える指で、隣の男を指す。飯田は途端に困惑した表情になって、呆然と「なんで」と呟いた。
 そう、「なんで」はこっちのセリフだ。なんで飯田がそんなものを持っているのか。
 「あの男」が写っている写真を。
「……どこで、こんな写真」
 おかしなことに、動揺しているのは自分だけではないようだった。写真を持ってきた飯田も、どうしたらいいのかわからないという風に落ち着きなく目線をさまよわせている。
「……とりあえず、落ち着こうぜ。……座れよ」
 飯田はまるで自分自身に言い聞かせるようにそう言うと、ミニテーブルを挟んで向こうに腰を下ろす。野崎も忌々しい写真をそれ以上直視したくなくてテーブルに置くと、がちがちに固まった体を義務的に動かして座った。日が落ちてきたのか、西日が窓から強い光を放つ。ドア側に座った飯田からは、もしかすると逆光になっているかもしれない。
「待って、俺もちょっと混乱してる」
 そう前置きしてから、飯田は二、三度深呼吸を繰り返した。
「……まず、この人は俺の親父なんだけど」
「……ああ」
 それは何となくわかった。続きを促すと、飯田は少し考えるそぶりを見せる。
「親父、カメラマンなんだ。テレビ番組とか、映画の撮影スタッフもやってたらしい。この写真は、手違いで俺と母さんの家に届いて」
 そこまで説明して、こわばった表情のまま唾をのみこむ。飯田の両親が離婚していることは知っている。飯田は母親と二人で暮らしてきたのだ。そして、父親と今も連絡を取り合うほどには仲がいいということも、野崎は知っていた。少し間が空く。飯田は青い顔で、ことさらゆっくりと息を吐き出した。
「もしかしたら、…………関わってるかもしれないんだ」
 その言葉に、野崎は瞠目する。何を指しているかはすぐに察しがついたが、飯田の父に、いったい何のかかわりがあるというのだろう。
「……どういう、こと……だよ?」
「俺にだって、わかんねえよ!」
 飯田は語気を荒げて答えた。しかしすぐに、己の失態を恥じる。
「ごめん、……でも、よくわかんないんだよ、本当に。なんで親父があの車を運転してたのか、なんであいつらが寺島を連れてこうとしてたのか……」
 野崎は、飯田の言葉の中に不可思議な単語を聞き取って眉を寄せた。
「……車? 寺島? 何の話だよそれ」
 どうやら、今日の彼には珍しく隙が多いらしい。飯田はまたしまったというような顔をすると、ため息をついて頭を乱暴に掻いた。
「全然わかんね。それこそ、本人にでも聞かないと」
 いまいち飯田の話が掴めない。しかし黙って聞いていると、
「昨日の夜、あの公園で、高橋と寺島がなにか話してた」
 すぐに穏便な話ではないことは分かった。
「は……なにそれ」
 聞いていない。しかし、勝手に行動したことに怒るよりも先に、野崎は昨夜の彼の不審の謎が解けたことを確信していた。
「内容まではわかんないけどさ、最後はちょっと言い争いになってた」
「……それで」
「高橋がいなくなったと思ったら、その……ワゴン車が来て、」
「それで、そいつらが寺島を拉致しようとした、と」
「運転席のやつぶん殴ってやろうと思ってさ。目があって、そしたら……」
 飯田は震えながら拳をテーブルに叩きつけた。
「ごめん、俺、どうかしてるよ。……こんなこと野崎にさせたくなかった。でも、確認したかったんだ、どうしても。……なあ、ほんとに親父じゃないんだよな……?」
 不安でしょうがなかったのだろう。野崎は首を振って、「違う」と否定した。飯田に似ているとは思ったが、この人を見たことはない。大体、あの日あの車を運転していたのはこの写真の男だ。そう、この気持ち悪い笑みで、車を降りてきたのだから。
「ありがとな、野崎」
 飯田は少し安堵したようだった。ようやく落ち着きを取り戻して、再び写真に目を落とす。
「……でも、この写真にこいつが写ってるってことは、関係なくはないんだよ」
 野崎は何も言えずにいた。飯田はこちらの表情を窺っているようだった。すっかりいつもの彼だ。
「野崎は……どうしたい? この写真は見なかったことにして、なんなら焼いてしまってもいい」
 選択を迫る。野崎は少しの沈黙の後、口を開いた。
「俺が忘れたいって言っても、飯田は調べるんだろ?」
「……」
 父親が本当は何をしているのか、何をしたのか、飯田は知りたいはずだ。野崎には関わらせまいとして、うまく隠すだろうけれども。
「正直、こいつの顔もまともに見れない。……怖いんだよ」
 野崎は自嘲気味に笑って、写真を目線でなぞった。これだけのことで冷や汗が浮かぶ。背筋がざわめいて、血が引く。吐き気が喉元までせりあがってくる。
「……でも。これはもう、俺だけの問題じゃないんだ」
 飯田も、寺島も、――高橋も。
「野崎」
 飯田は、この部屋に来てから初めて微笑んだ。
「……なんか、ちょっと見ないうちにかっこよくなったな」
「今更気づいたか」
 軽口を飛ばす。飯田はごめんと笑って、
「金曜会、今日はずる休みだな。……俺、もう部屋に戻るわ」
 思い出したように言った。日はほとんど沈んでいる。飯田は写真を手に立ち上がると、
「明日、親父に会ってくるよ」
 とだけ告げた。
「ああ」
 飯田の姿がドアの向こうに消えると、野崎は立ち上がってカーテンを閉めた。
 ――高橋のところに行こうと、決めていた。




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