深呼吸 28




 安いボールのぼつぼつとした感触、手になじむ空気、目の前にはバスケットゴール。
 ――放つ。
「……ッシュ」
 このコートで練習するようになってから、もうすぐ一週間になる。心もとない外灯の下で白い息を吐きながら、飯田は転がるボールを取りに行った。
 きっかけは単純なことだった。金曜会で草取りをしたコートで見た、高橋のシュート。あの後、自分でも驚くほどボールに触りたい気持ちが湧き上がってきて、鈴木に頼んで鍵を貸してもらったのだ。この週末はずっとこの場所に入り浸っていた。一年間のブランクは大きかったが、やはり自分はこの単純なボール遊びが好きなのだ。
「……ふー」
 腕時計を見ると、もうすぐ九時を回りそうだ。そろそろ帰ろうかとストレッチを始めた時、耳に人の声が入ってきて動きを止めた。少し遠いところから聞こえてきているようで、ここからは誰の姿も見えない。どうやら会話をしているようだ。
「……隣、か」
 公園に、しかもこの時間に何の話をしているのだろう。何となく不吉な予感がして、飯田はクールダウンもそこそこにコートを出ると、木の陰に隠れて様子をうかがった。
「高橋と、……寺島?」
 珍しい組み合わせだ。ますます何の話か気になったが、ここからでは話している内容まではわからない。
「なんか……もめてる、よな」
 緊張に空気が張りつめているのを感じる。なぜこんなところで、この二人が会話をする必要があるのだろうか。
 こんなところで――飯田は顔を顰めると、嫌な想像を頭から振り払った。
 高橋が寺島の腕を掴み、二人が縺れて倒れこむ一部始終を見てさすがに出て行こうと思ったが、今度は落ち着いて話を始める。トラブルというわけではないのだろうか。
 飯田が出ていきかねていると、
「黙れって言ってるだろ!」
 高橋が声を荒げた。一言二言かわして去っていく。あっという間のことで何が起こったのかわからないが、二人がこの逢瀬を楽しみにしていたわけではないことはよく分かった。飯田も寺島にいい感情をあまり持っていないが、その原因――野崎のことが頭から離れない。もしかしたら、彼がかかわっているのではないだろうか。杞憂ならばそれでいい。心配しすぎてしまうのは自分の悪い癖だ。
 高橋が去っても寺島はしばらくそこに座ったまま、空を仰いで呆けていた。飯田はすっかり出ていくタイミングを失ってしまい、その様子をどうしようかと考えながら眺めていた。帰るにはどうしても一本道である公園の前を通らなければいけない。盗み聞きしていたわけではないが、こんな時間にこんな場所で話をするくらいだ、他人には知られたくないことなのだろう。そう思うとますます姿を見られてはまずい。仕方なく木の根元に腰を下ろすと、寺島がいなくなるのをじっと待った。
 しかし、静かな夜の空気に紛れて、唸り声のような音が聞こえ始めたことに飯田は気づいた。車の通る音だ。それだけでも珍しいのに、近づいてきた音は公園の手前で不意に小さくなり、次いでライトが公園に向けられた。いよいよ怪しくなって腰を上げる。公園に乗り込んだ車――白いワゴン車が寺島の眼前で停止すると、助手席のドアを開けて誰かが下りてくる。
「あれ……あの車、どっかで……」
 飯田は妙な既視感に一瞬動きを止めた。どこにでもいる車だ。しかし、頭に隅に何かが引っ掛かっている。確か、野崎と一緒に歩いていた時。急停車した車。白いワゴン車。人が下りてくる。野崎が――。
「……寺島!」
 思い出した瞬間、飯田は走り出していた。焦燥感に全身が焼けるような思いだった。男は寺島の腕を掴もうとしていた。しかし飯田の存在に気付くと、すぐに踵を返して車に乗り込む。
「おい! 逃げんな!!」
 無理やり発進しようとする車の運転席のガラスを叩く。一瞬だけ、運転手の目線がこちらへ向く。
「……え、」
 飯田は足をぴたりと止めた。車は走り去る。後には静寂。
「い、飯田、なんでここに……」
 声の方を振り返ると、寺島がおびえた表情で立っていた。外灯のせいか、ずいぶん顔色が悪い。
「ああ、ちょっと、そこで練習してて」
 ようやく、肩にかけているバッグを草むらに置き忘れたことに気付いた。飯田はくるりと後ろを向くと、
「気を付けて帰れよ」
 それだけ言い放って歩き出す。本当は、ここで何をしていたのか聞くべきだろう。なぜ高橋と会っていたのか。今の男は誰なのか。
 誰なのか。
「嘘だよな」
 運転席の男。目があった瞬間、驚いたように目を見開いていた。わからないはずはない。むろん、見間違えることもないはずなのだ。
 飯田は鞄から携帯電話を取り出すと、リダイヤルから番号を見つけてコールする。一回、二回、三回。
『――こちらは、留守番電話サービスです』
 瞬間、携帯を乱暴に閉じて握りしめた。
「なんでだよ」
 どうして、電話で写真のことを聞いてきたのか。封筒の中に母の好きなブラームスのCDが入っていたのか。あの白いワゴン車を運転していたのか。
「…………親父」



 そこから、いったい自分がどう帰ったかわからない。ともかく飯田は、気づくと自分の部屋の前に突っ立っていた。
「飯田? 何してるんだ?」
 はっとして振り返ると、野崎が不思議そうな顔をしてそこにいた。思わず目を逸らしてしまい、しまったと思った時にはもう遅い。野崎は訝しげに眉を寄せると、
「これ……今日の五限のプリント」
 そう言ってずいとプリントを差し出してくる。
「あ、ああ、さんきゅ」
「……あのさ、何してたんだよ? 帰りも遅いし」
「いや、別に大した用じゃないんだけど」
 練習をしていることを隠す気はなかった。気恥ずかしいが、それだけだ。野崎に何より知られたくないのは、あの公園の隣で練習しているということなのだ。飯田は、ほんの少しでも野崎にあのことを思い出させたくなかった。それに――今日、あの公園から野崎を遠ざけなければならない理由もできた。
「……なんか、隠してんだろ」
 しかし、野崎はこっちの思惑はお構いなしにずばり言い放つ。自分のことには鈍感なのに、人のこととなるとなかなかに鋭い。ただ、今はそれがつらかった。混乱している頭を整理する時間がほしい。
「なんにもないって。俺もう寝るから、おやすみ」
 さっさと話を切ると野崎の反応も聞かずに部屋に入る。我ながら怪しすぎる行動だ。
 ――しかし、ここですべてを打ち明けたらどうなる? 親父が「あれ」に関わっていたと知ったら?
「ああ……くそ!」
 ベッドに仰向けに倒れこむ。いつもの見慣れた天井が、やけに寒々しく感じる。
 そういえば、野崎が三階に来ることは珍しい。入学当初は、よく3階のテラスで過ごしたものだ。
 ようやく落ち着いてきたせいか、いろいろなことが頭をよぎっては去っていく。それを煩いと思いながらも、飯田は電気をつけないまましばらく自分の思考と対峙していた。




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