この人は、心の中で泣いている。今もずっと、涙を流し続けている。そう思った。だから、思わず言ってしまった。 「……泣きたいのは、こっちっすよ」 すると、 「泣いてねーよ」 本当に何でもなさそうな声が返ってきて、本当に泣きそうになってしまった。 ――守りたいとか、そういう一方的な感情ではなくて、対等な立場でこの涙をそっと拭えるような、そんな存在になりたい。 「……ありがとうございます。話してくれて」 こんな気持ちになるのは、はじめてだった。 サークル活動のない水曜日の夜に、高橋は303の扉の前に立っていた。対峙を期待しているのはもちろん、この部屋の住人である。少しして、目の下にクマをこしらえた寺島がドアを開けて姿を現した。高橋を見て、露骨に眉をひそめる。 「……なにか用か?」 野暮ったそうにそう言ったところを見ても、どうやら相当な寝不足らしい。もともといい方ではない顔色も今は土気色だ。その様相に違和感を抱きながらも、高橋は凛として寺島を見つめた。 「話があります」 「へえ、君が?」 「今夜九時、公園で待ってます」 寺島は驚くというよりは面倒そうに首を回している。てっきり断られるかとも思ったが(無論引き下がるつもりはない)、意外にも寺島は頷いて、ふんと鼻を鳴らした。 「……いいぜ。遅れるなよ」 公園というと、金曜会で鬼ごっこをやったその場所であり、野崎のトラウマの場所でもある。敢えて高橋がその場所を指定したのは、このことがどうあっても野崎に知られないようにしたかったからだ。我ながらずるい方法だと思ったが、これは彼の問題であると同時に、高橋の解決すべき問題になってしまった。いったん決めると一直線にしか進めないとよく兄に言われてきたが、やはりその通りだ。 夜の自然公園は、一つだけの街灯で照らされていて、やけに不気味に思えた。ひんやりとした空気が体を包み込んでいる。野崎の断片的な言葉が頭をかすめた。 「……くそ」 実際にその現場を見たわけではないのに、不快な感情が沸き起こってくる。土を蹴ると、静かに砂埃が舞った。すると、入口の方からゆっくりとした足取りで人影が近寄ってくる。それが待ち人であることはすぐに分かった。 「ちゃんと来ましたね」 「なんだよ、俺が逃げるとでも思ったのか?」 「別に、そんなこと言ってませんよ」 寺島は春用の黒いコートをきっちり着込んでいた。ジャージにパーカという適当な格好の高橋から見ると、どこか神経質そうな印象を受ける。彼は赤くなった手を寒そうに擦り合わせながら、眉を寄せて立ち止った。何も言わないところを見ると、自分でも何絡みの用事なのか薄々察しはついているのかもしれない。 「単刀直入に言います。あなたがあのCDを入れたんですか」 寺島を見る。彼はやはり平然としたまま、軽く首をかしげた。 「何のことだ?」 「違うならいいんです。面倒な後輩に捕まったと思って、聞き流してください」 この反応はどうなのか。彼のことをそれほど知っているわけではない高橋は、慎重に、用意していたカードを一枚切る。 「この前、集合ポストにCDが入ってましたよね」 「ああ、あの変な封筒のことか」 「俺のだけ、中身が違ってたんです」 ぴくり、と、寺島の肩が揺れた。普通ならば気が付かないほどのほんの僅かな変化だったが、高橋は見逃さない。 「……へえ。君は皆のCDの中身を知ってるのか」 「皆ってほどじゃないですけど。じゃあ寺島さん、あなたのは何だったんです?」 「……。変なクラシック音楽だったよ」 「ですよね。だから寮内でも問題にならなかった。だけど、俺のCDに入ってたのは、音楽なんかじゃない」 「……それが、俺に何の関係があるんだよ?」 「……」 思わず声を荒げそうになって、こらえる。きっと寺島を睨みつけると、彼の表情には焦りの色が浮かんでいる。 「メモも入ってた。『また会えることを、楽しみにしているよ』」 「だから、俺は関係ない……」 「Tって、誰?」 「……」 しんと、静まったのは会話が途切れたせいだけではなかった。空気が、凍り付いていた。 「……嘘、だろ、俺はちゃんと……っ!」 その一瞬を、高橋は待っていた。逃げられないよう寺島の腕を強く掴むと、彼は途端に恐怖に怯えた表情で暴れだす。もちろん、逃がすわけにはいかない。ようやく、透明人間の尻尾を掴んだのだ。 「別に取って食おうってんじゃない! あんたはTって奴を知ってるんだな?」 「知らない、知らない!」 思いがけない強さで腕を振り回す寺島につられてたたらを踏み、あっと気づいた時には二人一緒に地面に倒れこんでいた。すぐに寺島を見るが、彼は打ちつけたらしい肩に手を当てて顔を顰めながら目を伏せている。さっきまでの興奮はとりあえずは鎮まったらしい。 「……すみません。あなたを追い詰める気はなかったんです。全然」 「…………白々しいな」 起き上がって夜空を見上げる。無性に野崎の顔が見たくなった。彼は今、何をしているだろうか。 「……谷口」 「え?」 「俺は、それしか知らない」 谷口。確かにこの男はそう言った。それがTの正体なのだろう。やはり、Tは寺島ではなかったのだ。 「そいつとは、どういう関係なんですか」 「……」 どうやらそれ以上教える気はないらしい。高橋は寺島の様子を窺って、ため息をついた。 「CDの中身が違ってたっての。あれ、嘘です」 「は……」 「あなたはちゃんと、202号室にあの封筒を入れた」 さっと顔色が変わったのが分かった。まんまと騙されたことが悔しいというよりも、何か重大なミスを犯したかのような深刻な表情だ。 「あのサボテンも、谷口ってやつに頼まれたんですか」 「お前、なんで知って……!」 「中身がなんなのかも、知ってたんでしょう」 「……」 「なんでですか」 これ以上隠し通せないことを悟ったのか、寺島はうろうろと視線を彷徨わせてうつむいた。顔色は月明かりに照らされてさらに青白さを増している。 「野崎さんが、あなたに何かしたっていうんですか」 静かに問うと、寺島は地べたに座り込んだまま、一瞬呆けてからくつくつと笑みをこぼし始めた。あまりに場違いな笑いに、高橋は身構える。 「なにかした? だなんて、笑わせないでくれよ」 何がおかしいのかわからないまま、目の前の男がしばらく肩を揺らすのを見ていると、 「……君がなんであいつの肩持ってるのか知らないけど」 そう前置きしてから、おかしくてたまらないといった風に立ち上がった。 「あいつ、ホモなんだぜ」 背筋に悪寒が走った。事件の真相を彼は知らないはずだし、もし知っていたとしたら最低な言い草だ。高橋は判断を保留して暫し口をつぐむ。吐き気がしたのは、きっと、本の数週間前の自分を見ているようでたまらなかったからだ。 「高橋、君も騙されてるんだ。西山君だってそうだ! あいつに誑かされてるんだよ!」 「黙れ」 まずい、と思う前にもう手が出ていた。目の前で笑う寺島の襟首を掴んで引き寄せる。彼は僅かに呻いて苦しげな表情をしたが、それでも笑っていた。焦点が合っていない目でどこかを見ながら、ぶつぶつとまだ何か言っている。 「西山君は、絶対に渡さない。あんなホモ野郎なんかに、渡してやるもんか」 「黙れって言ってるだろ!」 殴り倒してやりたかった。しかしそれができなかったのは、僅かに残った理性からだ。今日、彼に接触したことは野崎には知られてはいけない。殴るなどもってのほかだ。……もっとも、彼に秘密ごとがある以上、堂々と喧嘩の勲章を言い触らしたりするとも思えないが――殴ったら負けのような気がしていた。力でねじ伏せることなど、一番簡単で野蛮な方法だからだ。 「……帰ります」 大きく息を吐いて、高橋は土の着いた背中を払った。 「…………もういいのかよ?」 「次野崎さんに何かしたら、許しませんから」 冷たい視線を投げると、寺島はひきつった笑みをようやく引っ込める。胸にもやもやと不安の波のようなものが広がって、踵を返した。寺島がついてくる気配はない。 今日は寝る前に、彼の部屋に行こう。そしてTも谷口も寺島も忘れて、漫画の話でもしていよう。 高橋は月を見上げて、僅かに足を速めた。 |