深呼吸 26


「で、なんで俺の部屋に来たんですか」
 野崎がもはや定位置と化してきた高橋のベッドに座ると、彼は一息ついてそう切り出した。野崎は頭の隅にあったことを整理しながら膝の間で手を組む。
「あのCD、入れたの寺島じゃないかって」
 高橋は僅かに瞠目して、デスクの椅子に腰かける。
「なんで、寺島さん?」
「あの怪しい封筒、西山のポストにも入ってたんだ」
「……寺島さんがチェックするはず、ってこと」
「うん」
 まあそう言ったのは当の西山なんだけど、と付け足すと、高橋は暫し考え込んでしまう。
「寺島さんがTの正体なら、あのサボテンも彼が置いていったことになりますね」
「……あれが部屋にあったときに、お前部屋の前にいたよな。誰か見なかったか」
「野崎さんが西山さんとキスしてんのは見ました」
「あー」
 言い訳も面倒くさい。西山を恨もうにも、彼は今頃女の子に囲まれて口説きの真っ最中というやつだ。
「それ以外によ」
「……。俺も部屋から出てきたばっかだったんで」
「そっか」
 たかが一週間前の出来事だ。確かあの日は大学から帰ってきて、部屋に入ろうとしたら隣から物音が聞こえたのだ。結局それは西山のお節介をこれほど後悔したことはなかった。
「お前になんか言われて、何となく鍵あけんのに手間取って余計イライラして……あれ」
 なにか重大な引っ掛かりを感じて、野崎は言葉を止めた。なんだ、なんか変だ。
「野崎さん?」
「部屋――鍵、閉まってただろ」
 そうだ。毎日きちんと鍵を閉めて外出する習慣は変わっていない。閉まっていた鍵を誰かが開けたというのだろうか。
「それって、誰かが鍵開けて入ったってことですか」
「……鳩」
「鳩?」
「風呂場に鳩が入った日、管理人室の中にあった俺の部屋の鍵が無くなったって、さくらさんに言われたんだ」
「それ……」
「鍵はすぐに返ってきたらしいんだけど」
「つまり、寺島さんが鍵パクって部屋開けて、サボテン置いたってことですか」
「だとしたら、周到だよな」
「寺島さんがTなら、そのCDの中身って……」
 Tの正体。野崎にはどうもそれが引っかかっていた。CDを入れたのもサボテンを置いて行ったのも寺島だとすれば説明がつく。ただ、あのメモは、寺島からのメッセージにはどうしても思えないのだ。へらへら気味の悪い笑みを顔に張り付かせた、あの中年の男。あいつがTではないのか? 辻褄が合わずに、野崎は天井を仰いだ。
「野崎さん?」
「え? あ、悪い、何」
「……。CDの中身、寺島さんは知ってるんですかね」
「…………さあ」
 高橋に様子を窺われているのがわかる。大丈夫、そんな簡単に倒れたりしないって。今は冷静だ。寺島がもしあの中身を知っているというなら、どうしてすぐに接触してこない? あいつのことだから、少なくとも西山がかかわる方法で脅しをかけてくるはずだ。盗聴器も、どちらかといえば西山の部屋に仕掛けそうなのに。
 高橋が息をついて、椅子を立った。たった二歩で、野崎のすぐ前にたどり着く。見下ろしてくる彼の顔はどこか苦しそうだった。
「やっぱり……俺に教える気は、ないんですね」
 なにが、とは聞かなかった。高橋が知らないのは、あの夜のことだけだ。
「この前飲んだ時の、あの反応がなんか関係してるんですよね」
 危険信号が光った。野崎はその場から動くことができずに、全身を緊張させる。強すぎる視線に目をそらした瞬間、
「逃げんな!」
 腕をつかまれて、上半身をベッドに押し倒された。その所作が口調の強さとは対照的に優しかったので、野崎は抵抗することも忘れて高橋の目を見る。逆光で表情はよく見えない。ただ、有無を言わさぬ雰囲気がそこにはあった。
「高橋」
 そして、その顔が一気に近づいて、その唇が重なった時も、野崎は馬鹿みたいに目を見開いたまま、ただ柔らかいなとだけ思っていた。
「……もう、いいでしょう」
 高橋がつぶやく。喉から絞り出したような声。
「無関係だって、まだ言うんですか? こんなに近づいておいて、関係ないって、また俺を遠ざけるんですか?」
 腕の力は、気付けばとっくに緩んでいた。その手が微かに震えている。野崎は逃げ回ったツケがようやく回ってきた気がして、怖さの反面、どこか安堵していた。
「高橋」
「……すみません、俺」
 自ら離れようとする高橋の腕を、今度は野崎がつかんだ。高橋の驚いた顔をしっかりと見つめる。
「話すよ」
 僅か20センチの間を静かな緊張が走る。野崎は不思議と落ち着いていた。自ら退路を断ったからかもしれない。
「全部、話す」
  拒否なんて、こいつ相手には何の意味もない。どっちにしろいつかこうなった気がするのだ。
「……いいんですか、野崎さん」
 さんざん話せと言っておきながら高橋がまじまじとそんなことを言うので、野崎は少し笑った。
「話してほしいんだろ?」
 ただ、聞かなかったことにはできないぞ。心の中で付け足した。静かな部屋に時計の秒針だけが響く。
「テレビつけろよ」
 言うと高橋が不思議そうな顔をするので、
「そんな大げさな話じゃない。テレビ見ながらでも聞いてくれた方が、気が楽だ」
 すると納得したのか、リモコンで操作されたテレビが見慣れた通販番組を映し出す。それを極力じっと見ながら、高橋に隣に座るよう促した。どこから話すも何もない。話すべきはあの日の事実。それだけだ。
「誰かに話すの、実は初めてなんだぜ」
「なにそれ、俺喜んでいいんすか」
 緊張をほぐすためなのだろう。高橋の茶々にもいつもの棘がない。
「……歓迎会んとき、買い出しじゃんけんがあっただろ」
「ああ、今年も野崎さんが行ったんですよね」
 飯田さんも追いかけて行ったみたいですけど、と意味ありげにつぶやくので、野崎は曖昧に笑うほかない。
「去年の話だ。俺は買い出しに行って、帰りに車とぶつかりそうになった」
 目を瞑るとフラッシュバックしてしまいそうで、テレビをじっと睨んだ。
「そこから、降りてきた男が、寮まで送らせてくれ、って、言うから」
 大丈夫だ、ここは明るい。野崎は呼吸を整えながら、暴れそうになる嫌悪を抑える。一年も心の中に封印してきたのだ。ホコリくらいかぶっていてもよさそうなのに、そのことは思いのほか鮮明に頭に刻まれているらしい。
「ついていったのが、悪かった。公園に連れてかれて、黒い男に、引きずりおろされて、目隠しされて、手、も足も、縛られ、て」
「野崎さん」
 高橋の心配そうな声を手で制した。これは、乗り越えなければいけないことだ。情けなくも、声が震える。裏返りそうになる。無理やりでも、絞り出さなくては。伝えなくては、いけない。
「たぶん、ビデオ、撮られてた。俺、あいつに、犯られたんだ」
 一気に言ってしまうと、胸のもやもやがいくらか軽くなった。高橋も、驚いた様子はない。およそ想像はできていたのだろう。
「至現在、おわり」
 冗談めかして手を叩く。高橋はちらりとも笑わずに、
「全然、終わってねえよ」
 低い声で呟いた。初めてテレビから隣の高橋へと視線を移す。
「全然、ちっとも、なにも終わってない! あんたはそれでいいかもしれないけど、俺は……」
 高橋の感情むき出しの声は、彼を不思議な魅力で包み込むような錯覚を起こす。年相応なような、それでいてひどく男臭い魅力だ。
「終わってない、か」
 まるで走馬灯のようにその時の映像が頭に浮かぶ。あの動画を見てしまったから、余計に生生しく感じるのかもしれない。肌に触れる熱い感覚も地面の冷たさも、結局何一つ忘れることはできなかった。そうだ、終わっていないのと同じだ。この一年、ずっと忘れようと努力してきた。警察に言わなかったのも、自分で決めたことだ。忘れたかった。それだけなのに、
「俺、何してたんだろ、一年間」
 情けなさに苦笑がこぼれた。
「……泣きたいのはこっちっすよ」
 さっきの勢いはどこへやら、自信なさげな声で言うので、
「泣いてねーよ」
 反射的にそう返してから、思う。そういえば、前にもこんなやりとりをしたっけ。
「……ありがとうございます。話してくれて」
 真摯な礼に返事はしなかった。ただ、驚くほどどうでもいいことが、ふと頭に浮かんでくる。
「何もねーのな」
 さっきの、キスについては。
「何が?」
「いや」
 こだわっている自分が馬鹿みたいだ。
 軽く首を振る。そして、この話は終わりとばかりに、野崎はテレビのチャンネルを変えた。




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