深呼吸 25


 肉の食べすぎで胃がもたれるということも無く、日曜日の朝はいつものようにやってきた。
 時間を見ると、八時を過ぎたところだ。
 廊下に出る。休日の朝は、いつもの騒然とした感じがなくて好きだ。階段を下り、食堂へ向かう。
「あれ、野崎君遅いわね。西山君も飯田君もとっくに出て行ったのに」
 ご飯をよそいながら、さくらがそう零した。野崎はその言葉に首をかしげる。西山は女友達とカラオケに行くと言っていたが、飯田はわからない。そういえば、昨日もどこかへ出かけていたようだった。
「飯田、どこに行くとか言ってました?」
「さあ……。ジャージを着てたから、金曜会の活動でもあるのかと思ったんだけど」
「そうですか……。すみません、いただきます」
「いいのよ。ゆっくり食べてね」
 人のいい笑みを浮かべたさくらに背を向け、選び放題のテーブルにつく。食堂に設置されたテレビは日曜日のバラエティーが放送されていて、静かな食堂に響いている。
 箸を持ち上げて「いただきます」をしたとき、向かいの椅子がガタン、と引かれた。顔を上げる。そこにいた意外な人物に軽く驚いた後、野崎は軽く会釈した。
「ここ、いいか?」
「どうぞ。……おはようございます、久世さん」
 周りから見ても珍しい組み合わせだと思われるだろうが、自分が一番違和感を感じているのだから本当だ。野崎は、久世が誰かと食事の席を共にしているのをほとんど見たことがなかった。この間、向かいに座った鈴木が一方的に何か話していたのを目にしたことがあるが、あれは一緒に食事をとっているのとは違う気がする。
「……」
「……」
 何も言わない久世にわざわざ何か言い出す気力もなくて、二人はお互いに無言のまま、淡々とと朝食を口に運んだ。異様な光景だろうが、厨房にいるはずのさくらでさえ何も言ってくれない。妙なプレッシャーの中ようやく箸を置いたとき、
「野崎」
 ようやく口を開いた久世の口調は、いつも通りだった。野崎は顔を上げて、そのあとの言葉に耳を傾ける。
「この後、暇か?」
 今度は、驚かなかった。いや、内心おっかなびっくりだったのは正直なところだが、不思議と落ち着いていた。本当は彼と合席したときから、なんとなくそんな気がしていたのかもしれない。
「特に用事はないです」
「じゃあ、俺の部屋に来てくれ」
「あの……」
「来れば、わかるから」
 そう言って野崎の言葉を遮ると、久世はいつの間に食べ終わったのか野崎より先に立ち上がり、いつもと変わらぬだるそうな足取りで出て行ってしまった。久世とはどこか会話がかみ合わない印象があるが、今回のは顕著だ。漠然とした不安を抱えたまま、野崎も後を追う。
「あ、野崎君」
 しかし食器を戻したタイミングでさくらに呼び止められ、足を止めた。
「久世君、もう行っちゃった?」
「はい、たった今出ていきましたけど」
「野崎君は隣の部屋だったわよね。あの、これ、あの子に渡してほしいんだけど……」
 そう言って、ひんやりと冷たい何かを手渡された。
「羊羹……?」
 ひどく懐かしい見た目のそれは、手にすっぽり収まるサイズの抹茶羊羹だった。
「最近ね、なんだかラジオの調子が悪くって。彼はそういうの得意だから、修理お願いしたのよ」
「ああ、久世さん工学部ですもんね」
 実は、この寮内で工学部なのは久世だけだったりする。野崎含む二年生と一年生は皆経済学部、三年生は教育学部が多い。文系が多い中での理系は非常に貴重ということだろう。
「おかげでまたちゃんと聞こえるようになってね、ほんとよかったわあ」
「それでこれ、お礼ですか?」
「そう。久世君、羊羹好きだって言ってたから」
「はあ……」
「じゃ、お願いね」
「わかりました」
 久世が羊羹が好き、というのはあまり驚きはない。というのも、久世は甘党だという話をよく鈴木がしていたからだ。(ちなみに彼は辛党で、よくそのことについて語っている)野崎は羊羹の甘さをおぼろげな記憶で思い出しながら、階段を上った。
「失礼します」
 初めて見る久世の部屋は整然としていたが、その中に最近よく見る男の姿があって思わず目を見開く。
「なんで、お前がここにいるんだよ、高橋?」
「野崎さん、昨日はありがとうございました」
「あ、ああ、勝ってよかった。……じゃ、なくて」
「来たか」
 声がして奥に目を向けると、部屋には久世の姿もあった。ふと手の中の菓子を思い出して、差し出す。
「これ、さくらさんが」
「おお、羊羹」
「ラジオ直してくれたお礼だって言ってましたけど」
「……ラジオを直したわけじゃ、ないんだけどね」
 久世は複雑そうな顔でそう答えた。野崎が何か言う前に、高橋が白いビニール袋を突き出した。
「今日は、その件で呼んだんですよ」
「これ……」
 袋の中を覗いて、唾をのみこむ。その緑色の物体は、つい先日まで机の片隅でひっそりと息をしていた、手のひらサイズのサボテン。そういえばあの日、高橋がこのサボテンを引き取ったのだ。それが、なぜこんなところにあるのだろう。理解できずに、野崎は恐る恐る顔を上げた。
「野崎さん、あんたはもうちょっと警戒心っていうのを持ったほうがいいですね」
「何?」
 高橋は真面目な顔のまま一拍おくと、部屋のデスク上に目をやる。
「盗聴器がついてた」
 ざっと、血の気が引いた。
「は……何だって?」
「だから、このサボテンに、盗聴器がついてたんすよ」
「これだな」
 久世がそこにあった小さな黒い機器を持ち上げる。四角い箱のような形で、一言で「盗聴器」と言われてもピンとこない。
「なんで、そんなものが……」
 思わず一歩後ずさる。高橋が表情を曇らせたのがわかった。
「俺はこういうの詳しくないし、工学部の久世さんに聞けば何かわかるかと思って」
「ちょうどそのとき、さくらさんにラジオの修理を頼まれてたからな。すぐにピンと来た」
 久世は野崎にベッドサイドに腰掛けるよう促した。高橋に腕を引かれて力なく座ると、久世もキャスター付きの椅子に腰かける。
「ラジオと、なんの関係が」
「悪くなってたのはラジオじゃなくて、電波のほうだったってこと」
 代わりに答えた高橋の言葉に頷いて、久世は続ける。
「これの電波と混線しちゃってたんだ」
「だ……いったい、だれが」
「……この型、結構古いみたいだから。受信範囲は2、300mってとこ」
「……」
「野崎さん、顔白い」
 高橋の心配そうな声も頭のどこか遠くで響いている気がする。
「これ、受信機なんだけど」
 久世も気を使っているのだろう、遠慮がちに机の中から取り出したのは、百円ライターほどの小さな機器だった。短いアンテナが付いていて、これも傍目にはなんなのかはわからない。
「捨てられてた。たぶん、高橋が気づいたのがわかったからだろうな」
「捨てられてたって、どこに、ですか?」
 うつむく。冷静になれ、と自分に言い聞かせるたびにどんどん焦りが浮かんでくる。
「一昨日、金曜会で草取りしただろ。あそこの、金網の前に」
「……公園の、となり」
 深く呼吸しようと吸った息はうまく吐き出すことができずに、やたらと震えた。
「野崎さん」
 高橋の手が背中に当てられる。
「これは、警察に言っていいくらいのことですよ」
 野崎の沈黙をどう取ったのか、高橋は僅かに悔しそうに片足で床を蹴った。その様子を見ていた久世が、静かに告げる。
「一応、さくらさんには言わないでおいてる。俺はもっと詳しいことを調べてみるけど、野崎。気をつけろよ」
 ぼんやりしたまま、高橋に連れられて廊下に出た。そこで、高橋がぼそりとつぶやく。
「久世さんには何も、言ってませんよ」
「そんなことは気にしてねーって」
 笑ったつもりだったが、果たして笑えているだろうか。そのまま自分の部屋に入ろうとして、なんとなく気味が悪くなり、足を止める。踵を返すと、高橋の部屋を開けた。鍵はかかっていない。
「ちょっと、勝手に入んないでくださいよ」
 高橋が若干あわてたようについてくる。おおかた、散らかっているというような理由だろう。
「いいだろ、別に。……俺の部屋西窓なんだよ」
 本当は、部屋に帰りたくなかった。まだ得体のしれない何者かが潜んでいるような気がしてならないのだ。
「なんですか、それ」
 野崎の妙な言い分を聞いて、高橋は微かに笑った。拒否はしないんだ、と思う。こいつは自分と違って、拒否はしない。
「ごめんな、」
 小さくつぶやいた声は高橋の耳には届いたが、
「え? なにが」
 どうやらうまく伝わってはいなかったらしくて、少し安堵した。




  戻る  次へ