太陽の下で 1


 今日は真夏日だ。
 じりじりと真上から日光が降り注ぐ午後二時。本谷悠(もとやゆう)は、母親から渡されたメモ用紙を手に、舗装されたコンクリートの歩道の上を歩いていた。近くのスーパーまでは歩いて十分。さして遠い距離ではないが、一秒一秒が長く感じられる。それもひとえにこの気温のせいだ。気温だけならまだいいものの、今年の夏は例年より湿度まで高い日が続いていた。ただ暑いのと、蒸し暑いのとでは、全く違うのだ。
 その証拠に、いつも塀の上で寝転がっているぶち猫がどこにも見当たらない。猫は常に快適な場所にいるというが、本当なのかもしれない。
「悠くんじゃない!」
 塀の裏に潜んでいるのではないかと疑って覗いてみようとしたときだった。突然声をかけられ、悠はやましいこともないのについびくっとしてしまった。見ると、すぐ傍の家から買い物袋をさげた女性が出てくる。
「あ、こんにちは」
 近所なので顔は見たことがあったが、わが本谷家とどんな間柄なのかとか、この人の子供が誰と同級生だとか、そういったことは全く覚えていない。そういう情報は大人の専門なのだ。
「もう、久しぶりねぇ。今何年生?」
「大学一年です」
「まあ、大学生なの? ちょっと見ないうちに、早いわねえ」
 女性は大げさに手を振ったりしてずっとにこにこしていた。この暑さのなかでちっとも渋い顔にならないとはと、変なところで感心した。
「ここから通ってるの?」
「いや、向こうでアパート借りてます」
「あらそうなの、じゃあ今は?」
「夏休みなんで」
 そもそも、向こうに自転車を持っていってしまっているので、こうして十分の距離を炎天下の中歩かなくてはならないのだ。
「あらあら、大変なのね。それじゃあ、気をつけていってらっしゃいね」
「はい。……あ、あの」
「なに?」
「ここらへんに、猫いませんでした?」
「ああ、あの子なら今木陰にいるんじゃないかしら」
 やっぱり噂どおりだった。猫でもこの日差しを避けるというのに、自分はなぜここにいるのだろう。悠はぼんやりと自問自答しながら、今度こそ名も知らない女性に別れを告げた。
 スーパーの中はいわば極楽だった。天国だった。クーラーの効いた店内は暑さで煮えくり返りそうだった体の奥まで冷やしてくれるようで、メモにあるものをかごに入れ終える間、悠はしばしの休息を味わった。
「うわ……」
 店内から一歩外に出た瞬間、思わず声が漏れた。セミの鳴き声も暑さに拍車をかけているのか、何歩か歩いているうちに、じっとりと全身に汗がにじんでくる。早く帰ってクーラーの恩恵にあずかろう。そう決心して、悠は無心で歩き続けた。
 途中で、妙なことに気づいた。後ろから、同じペースで進む足音が聞こえてきたのだ。それだけでは特に不審に思うこともないのだろうが、問題は男の服装だった。途中のカーブミラーで確認して、悠は迷わずその男を不審者と断定した。
 長袖長ズボンにニット帽、マスクにサングラス。
 あまりの暑さを想像して悠は鳥肌を立てた。もしかしたら、これから強盗でもするのかもしれない。そう考えて、警察に通報しようと常識的に考えてみたたが、関わりたくないという気持ちのほうが強かった。
 とりあえず後ろを歩かれるのはどうにも落ち着かないので、途中の自動販売機で悠は足を止めた。男をやり過ごすためでもあったが、ちょうどいいので飲み物でも買っていこうと思ったからである。
 缶コーラのボタンを押しながら、男の気配をうかがう。
「おい」
 ガタン、とコーラが落ちてくるのと同時だった。すぐ後ろで男の低い声がして、自動販売機にうつる影が広がった。
 悠は振り返らなかった。心臓がうるさいほど高鳴っているのに、頭の一部は冷静だった。
「おい、聞こえてんだろ、お前」
 さっきより声が大きくなった。悠は無視を続けてコーラを取り出し口から拾うと、そのまま横に逃れようとした。
 しかし、容赦のない力で腕を掴まれて動きが止まる。手に持った缶コーラが勢いよくコンクリートに転がった。
「放せよ!」
 危機感を感じて無我夢中で暴れると、不意に男が力を緩めた。予想外だったので思わずたたらを踏んでしまう。するともっと予想外なことに、男はきっちり九十度に腰を折って、「頼む」と口にした。
「え?」
 逃げようとした足をぴたりと止める。男の声に切実な響きがあったからだ。
「電話番号を教えてくれ」
「は……」
 唖然、呆然。これ以外の言葉はない。悠はさっきまでの危機感で忘れていた暑さが一気に戻ってきたような感覚に襲われた。
「電話番号って、俺の?」
「そうだ。頼む」
 なんだか目の前の男が哀れになってきた。理由は分からないが、自分の電話番号のためにこんなにも必死になっているのだ。悠は静かにため息をついた。今日は変な日だ。
「……ほら、ケータイだせよ」
 男はゆっくりと顔を上げた。まったく表情は見えないが、何となくサングラスとマスクの向こうの顔が想像できる。男は急いでピカピカの携帯電話を取り出すと、二つの携帯電話を触れ合うくらいに近づけた。
「……これでいいか?」
 男はしばらく自分の携帯電話を見つめていたが、「ああ」と呟くと、帰ろうとしていた悠を引き止めるように、
「コーラ」
 と呟いた。
「それ、ダメにしただろ」
 奢る、といいたいのだろうか。悠はコンクリートに打ち付けられて少しへこんだコーラの缶を拾い上げると、ついた砂を軽く落とした。
「いーよ別に。借りにしといてやるよ」
 もうこの男を怖いとは思わなかった。悠は笑顔を浮かべると、立ち尽くしている男に手を振った。
「じゃーな」
 すっかり汗をかいたコーラをスーパーの袋に押し込みながら、悠は携帯電話を開いて、閉じた。
 そういえば名前を聞くのを忘れたな、とぼんやり考えながら。



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