悠はクーラーの効いた居間のソファに転がりながら、青色の携帯電話を見つめていた。時折それを開いたり閉じたりして、また体勢を変える。どうも落ち着かなかった。 真夏の昼間に長袖長ズボン、深いニット帽にサングラスという見るからに怪しい恰好をした男に電話番号を教えてから、既に三日が過ぎていた。しかし男から連絡はまったくない。そろそろ、あの出会い自体が白昼夢だったのではないかとさえ思い始めていた。 元はといえばあの男があまりに必死に頼み込むから、可哀想になって教えてやったのだ。なのになぜ自分のほうが気にしなければならないのか。だんだんと腹が立ってきた。しかも、こっちはあの男の名前すら知らないのだ。 悠は青い携帯電話をテーブルの向こうのクッションめがけて放り投げた。と、同時に着信音が高らかに鳴り出す。悠の好きなジェームズ・ボンドのテーマソングだ。慌てて拾い上げて通話ボタンを押す。 「……もしもし」 心臓の音が大きい。声が震えなかっただろうか。しかし、悠の心配とは裏腹に電話の向こうから聞こえてきたのはごく軽やかな声だった。 『悠? 俺だけどさ、元気ー?』 思わず肩の力が抜けた。声の主は、わざわざ着信元を確認せずとも分かる。高校のときによく一緒にいた友人の斉藤文一(さいとうふみかず)だ。彼とは大学こそ分かれたが、半年たった今でもまめに連絡を取り合う仲である。 「なんだ、お前かよ……」 知らず知らずのうちに伸ばしていた背中の力を抜くと、そのままソファに転がる。 『なんだよそれ、俺じゃ悪いかよ』 「いや、いいけど……お前もこっち帰ってきてんの?」 『ん、盆に合わせてな。悠はいつまで?』 「そうだな……八月中はいるよ」 大学の授業再開は九月の中旬からだ。そのくらいまで実家にいても問題は無いだろう。 『そうか。なら、こっちにいるうちに一回会おうぜ』 文一の声がにわかに弾む。悠もちょうど暇な日々を送っていたところだ。 「オッケー。いつにする?」 『明日は?』 「わかった」 悠が了解したことで、明日の計画はぽんぽんと決まった。何しろ、久しぶりの再会だ。文一に会えるのは楽しみだったし、大学に行って染めたというその髪も見てみたい。 『じゃあ明日遅れんなよ?』 「あ、ちょっと待って」 電話をようやく切ろうとしたときだった。ふと例の男のことを思い出して、悠は文一をを引き止めた。 『なんだよ?』 「あのさ……今の時期に長袖長ズボンにニット帽にサングラスの男がいたとしたら、何者だと思う?」 『は?』 「もしもの話だから」 さすがに、いきなり電話番号を聞かれましたとは言えなかった。(しかも教えたなんてもちろん口が裂けても言えない) 『そうだなあ……吸血鬼とか?』 「吸血鬼か……」 そうかもしれないと、一瞬真面目にそう思ってしまった。人間界にやってきた吸血鬼が、友達を求めて日光の下に……。 『悠。吸血鬼には、十字架とニンニクだぞ』 「いや、別に俺が退治するとかじゃないから」 文一の冗談に軽く乗ってから、今度こそ電話を切る。なんとなくすっきりした気分だ。 「十字架とニンニクね……」 吸血鬼という例えが案外しっくりきてしまった。そういうことにしておけば、何となくひと夏の思い出として終われそうだ。しばし夏の音に耳を傾けようと目を閉じたが、クーラーの稼動音が響くだけだった。 このまま少し寝てしまおうか。そう考えたときだった。静寂を切って、ジェームズ・ボンドが再び鳴り出した。 文一だろうか。まだ何かあったのだろうかと思い、通話ボタンを押す。 「もしもし」 『…………』 しかし、返事が無い。もう一度言ってみるが、やはり返事は無い。画面を確認すると知らない番号だ。いたずら電話かもしれない。 「……切りますよ」 『…………あ、』 聞こえた。「あ」と、確かに電話の向こうから聞こえた。そのとき、唐突に男のことを思い出した。なぜさっきまであんなに気にしていたのに忘れていたのだろうと不思議だが、今更だ。まだ確信はないが今の低い声には聞き覚えがある。 「もしかして、この前の人?」 一応聞いてみると、電話の向こうでがさがさと雑音が響いた。 『コーラの……』 間違いない。あのときの男だ。ぶっきらぼうな声の調子を悠はよく覚えている。 「コーラって……」 『借りを返したい。明日の午後二時、自動販売機の前で待っている』 一気にまくし立てて、男はまた押し黙った。悠はしばしその勢いに気圧されてぽかんとしていたのだが、 「あ、借りなんて、別にそんな本気で言ったわけじゃ……」 『俺が返したいんだ』 「そうか……なら、いいけど」 『……』 「……あ、お前の名前は?」 沈黙がつらくて苦し紛れに聞いたのがそんなことだった。しかし、案外いい質問だったかもしれない。名前が分からなければどう呼べばいいかも分からない。 『……笠木智』 カサギトモ。意外に普通の名前で拍子抜けする。 『じゃあ、明日の二時、忘れるなよ。悠』 思わずどきりとしたのは本当だ。どうして名前を知っているんだろうと思い、そういえば電話帳ごと送ったのを思い出す。 「ああ、明日な……」 電話がぶつりと切れてから、悠はしばらくその場に固まっていた。 しかし、ふと顔を上げると、「あ」と思わず声を出した。 「明日って……あー……」 やられた。ダブル・ブッキングだ。悠は思わずソファにもたれかかって、真っ白な天井を仰いだ。 エアコンのスイッチを消して、携帯電話を再び開く。着信履歴から友人の名前を選択すると、コールの間、悠はずっと締め切っていた窓を開けた。ジワジワと聞こえてくるセミの音をBGMに、予定をずらして欲しいという旨を伝える。 午後三時の日差しが、部屋の中に忘れかけていた夏を運んできたようだった。 |