太陽の下で 3


 次の日も、真夏日だった。悠は変な方向にうねる髪と格闘しながら、しきりに時計を気にしていた。もう少しで約束の二時になる。大体……と、悠は考えた。大体、彼――トモは、コーラの借りを返すためだけに電話してきたのだろうか。それならなぜまた炎天下の午後二時を指定してきたのだろう。コーラを買って返すために?
「あー……いいか」
 まだ自己主張を続ける寝癖をとうとう諦めて、悠は家を出た。親が仕事に出ているので鍵を閉めることを忘れない。相変わらずの晴天だ。むかつくほどに雲が無い。悠はじりじりと跳ね返ってくるコンクリートの照り返しを徹底的に無視しながら、早歩きで待ち合わせ場所に向かった。
 今度は猫どころか、近所のおばさんにも会わなかった。
「……いた」
 自動販売機が見えてくると同時に発見したのが完璧な不審者。ギンガムチェックの長袖シャツにジーンズ、そしてやはりニット帽にサングラス、マスク、おまけに首にはストールを巻いている。妙なファッションで片付けられない異様さがそこにはあった。
 ――吸血鬼。そんな言葉が悠の頭に浮かんで消える。
「……よぉ」
「俺も今来たところだ」
 聞いてもいないのにそう告げられる。彼と会ったのは四日ぶりだったが、電話で一回話したといってもその親密度はほぼゼロに近い。何を話したらいいのだろうか。
「笠木、」
「智でいい」
「じゃあ智。コーラの借りって……」
「そうだった」
 智はそう言って千円札を一枚取り出すと、自動販売機に挿入して悠に向き直った。
「何本欲しい?」
「いや、一本でいいから」
 悠がすかさずそう返すと、智は「遠慮しなくて良いぞ」と言いながらコーラのボタンをとりあえず一回押した。
「ほら」
「さんきゅ」
 コーラを受け取って智を見る。そして、このマスクとサングラスの下にはどんな顔があるのかと想像した。もしかしたら肌の色が緑や紫なのかもしれない。唇の両端から牙がでているのかもしれない。
「ほら」
 考えているうちに智が二本目を差し出すので、思わず受け取りそうになって、
「いや、いいって」
 すんでのところで押し返した。
「お前が飲めよ」
「そうか」
 智は素直にそれを受け取ると、おつりを財布に戻してズボンの後ろのポケットに突っ込んだ。二人でプルタブを開け、冷たい液体を喉に流し込む。……流し込みすぎてむせた。
「大丈夫か?」
 うずくまってしきりに咳をしていると、智が背中を撫でてくれた。手袋越しなのだろうが、大きくて骨ばった手のひらだ。手が触れている箇所が熱い。
「……ん、もう大丈夫。変なとこ入っただけ」
 立ち上がると、いきなり太陽が近くなったような気がして、眩暈がした。
「あの裏にベンチあるからさ、ちょっと休もうぜ」
 あまりの暑さに耐えかねてした提案だったが、少し後悔する。智はコーラの借りを返しに来ただけというのに、自分が話をする気満々なのはどうなのだろう。
「わかった」
 智は、悠の後におとなしく着いてきた。端から見れば異様な光景だろう。膝丈のズボンにTシャツというラフな恰好の男の後ろに、背の高い不審者だ。この時間帯、近所に通行人が全くいなかったのが唯一の救いだった。警察など呼ばれたらたまったものではない。
 来た道を少し戻って細い小道に入ると、突き当たりに植わっている大きな杉の木の下に、手作り感あふれる小さいベンチがあった。小さいころはよくここにきて遊んでいたのだ。当時は小さいブランコも併設されていたのだが、いつのまにか取り壊されてしまったらしい。
「あー涼しー」
 木陰に入ってコーラを一口飲む。智も後からやってくるが、全身を衣服で包んだ体が涼しさを感じているのかは疑問である。
 二人で座るとベンチはぎりぎりだった。とりあえず一息ついてから、悠はずっと気になっていたことを智に告げた。
「暑くねえの?」
 ずばり、核心をつく。しかし当の本人は全く意に介していないようで、
「暑いけど」
 こともなげにそう答えた。何となく予想していた答えと正反対だったおかげで反応が遅れてしまう。
「そうか、そうだよな」
 よく考えれば当たり前のことである。
「じゃあ、脱がねえの?」
 これはどうだとばかりに悠は問いかけた。しばしの沈黙のあと、智はようやくその口を開いた。
「脱がない」
「でも、顔も見せないのは失礼だろ?」
 悠はこれでもかというほどしつこく食いついた。智はまた口をつぐんで、今度は一段と低い声を響かせる。
「顔見たら逃げるぞ、お前」
 声だけなのに迫力がありすぎて内心怖気づいたが、悠はこれはもう素顔を見なければ帰れないとまで思っていた。
「逃げねえよ」
 そう啖呵をきる。もう、この男の正体が吸血鬼でも、耳が尖っていても驚かない。智は悠の決心を汲み取ったのか、やがて観念したようにずらしたままのマスクに手をかけた。その次にニット帽、そしてサングラス。
「…………」
 悠はじっくりと男の顔を観察した。耳も尖っていないし、肌の色は白っぽいが肌色で、尖った歯も出ていない。
 強いて言えば目が鋭くて眉間に皺も寄っているのでかなり怖い顔だとは思うが、それを冷静に考えられる程度に悠は落ち着いていた。いや、拍子抜けしていたと言った方が正しいだろう。
「ごめん、なんか……意外と普通だった」
「…………」
 妙な空気が流れる中、智が再びニット帽をかぶろうとしたので慌てて止めた。
「そっちのほうがいいよ、絶対」
「…………怖がらないんだな」
「当たり前だろ」
 悠はこの男を怖いとは思ったことは一度も無い。会話が苦手、と表現するとしっくりくるが、まさに智はそれに当てはまるようだった。つまるところ、不器用なのだ。
「また……電話していいか」
 智がポツリと呟く。さらさらと穏やかに流れていく風が心地いい。
「いーよ」
 こんな出会い、めったにできるものではない。悠は残りのコーラを飲み干して、立ち上がった。
「次は何でその長袖脱がないのかも聞くぜ」
 容姿が普通でもまだ吸血鬼説が残っているんだと、心の中で続けながら。悠は木陰から一歩でて、相変わらず仏頂面のままの智を振り返った。
「じゃ、コーラごちそーさん」
「ああ」
 そうだ、謎だらけのこの男の正体をじわじわと暴いていくのだ。楽しそうではないか。
 悠はまだ高い位置にある日差しを真っ向に浴びながら、軽やかな足取りで家へ向かっていた。



 戻る   次へ