冬のバス停 4


 発端は、仁が帰ってくるということを母に伝えたことだった。
 少々浮かれすぎていたのかもしれない。母の思いもしない厳しい反応に、優也は煮え切らない苛立ちを隠せずにいた。
「いいだろ、勉強はちゃんとするし」
「そういう問題じゃないでしょ、優也」
 頭が痛い。説教のときにいつも感じる「あれ」だった。向けられる言葉が鉛のように重い。がんがんと反響するような鈍い痛みだ。
「今、どんな時期か分かってるの?」
 知ってる、と頭の中で答えた。強い眩暈のようなものを感じて、言葉にはならなかった。
「あの子、優也を邪魔しに帰ってくるつもりなのかしら!」
「違う!」
 今度は声が出た。あまりの大声に母が唖然としている。いつものように新聞を読んでいる父も、こちらをぽかんと見つめていた。
「と、とにかく、仁には母さんから連絡しとくから」
 母の頑なな態度に、不意に虚しさがこみ上げてきた。優也はずきずきと痛むこめかみを押さえながら、少し息を吐いた。
「……俺はいいって言ったんだ」
 ――家族じゃないか。その一言がどうしても口に出せない。否定されることを恐れているのかもしれない。
「兄貴が帰ってこないなら、俺、もう勉強なんかしない」
「優也!」
 朝飯はまた抜きになった。優也は鞄をひっつかんで家を出ると、マフラーを忘れたことに気がついたが、戻る気もせず、ちらちらと優しい速度で降る雪の中を、ありったけの力で走った。心の中のもやもやが、いつまでたっても消えてくれない。皆が幸せだった頃の家族の姿を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。
 バス停まで走って、そこにいた男の姿を見て、優也はぴたりと足を止めた。コートの男が振り返って、驚いたような顔でこちらを見ている。
 何の前触れもなしに、ふと、泣きそうになった。
「おはよ」
 乱れた呼吸のまま、苦笑いでごまかして挨拶をすると、男はくすりと笑った。
「おはよう。……そんなに急がなくても、まだバスは来ないぞ」
 普段のしかめっ面が一転して、優しい笑みだ。背格好はまるで違うが、どことなく雰囲気が仁に似ていると感じた。だから、こんなに一緒にいることに安心するのかもしれない。
 数分たって、ようやく呼吸が穏やかになったころ、いつもの緑色のバスが近づいてきた。優也はいつもの一人席へと腰を下ろすと、鞄を抱きしめながら窓の向こうを見つめた。
 ブー、ブーと何かが振動する音が響いているのに気づいて携帯電話を取り出すと、その瞬間、それはぴたりと止んだ。着信が一件、母からだった。今がバスの中だということくらい分かっているはずなのに、何があったのだろう。さっきの不快な気持ちがよみがえってきて、振り払うように首を振った。
 兄の後姿を見て育った優也は、無駄なことはせず、親に逆らわないように生きてきた。勉強もきちんとするし、熱く夢中になるような趣味も持たなかった。今思えば、なんてつまらない人生だろう。得られたものなど、何もない。
 優也はさっき男に感じた、不思議な気持ちを思い返した。あのとき泣きそうになったのは、なぜだろう。助けて欲しいとでも、思ったのだろうか――。
「どこで、降りるんだろう……」
 もしこの興味に素直になったら、どうなるのだろうか。優也は携帯電話を開くと、めったに使わないメール画面を開く。
「『赤船高校前』に止まります――」
 ゆっくりとした動作で、目黒のアドレスを呼び出した。心臓が、高鳴っている。
 久しぶりに沸き起こったこの感情に任せて、全てを投げ出してしまえたら、何かが変わるだろうか。何か大切なものを、手に入れることができるだろうか。
 『今日休む』そう、ゆっくりと打ち込む。高校前に止まったバスから数人の生徒が降りていく。春休み中のためか、生徒の数は少ない。優也は両手で携帯電話を握りながら、目を瞑った。一秒、二秒、三秒……。ついに送信のボタンを押した瞬間、ちょうどプシューとドアの閉まる音がして、優也と同じ制服を着た人たちが、窓の向こうでみるみるうちに小さくなっていった。
 ドクドクと、心臓が強く脈打っている。既に履修すべき授業は終了しており、学校に行く目的は二次試験対策の補講だけだ。いない生徒も多くいるし、うまくすれば気づかれないだろう。いや、気づかれないはずだ。そう自分に言い聞かせながら、優也は落ち着かないように窓の外を眺めた。ふと、母からの着信のことが頭をよぎったが、それを振り切るように、畳んだ携帯電話を鞄の奥に突っ込んだ。
 ――次、止まります。
 何度目かのブザーが鳴る。既にいくつものバス停を通り過ぎていた。
「『私立病院前』に止まります。お降りの方は――」
 アナウンスの後バスが止まり、老人達がゆっくり降りてゆく。ぼんやりとその様子を見ていると、あの男が横を通り過ぎていったのに気づいて、優也は思わず声を上げてしまった。
「あ……」
 男は回数券を入れると、降りる瞬間、こちらを振り向いた。――ほんの一瞬、目が合う。
 それだけだった。バスが再び走り出すと、優也は気が抜けたようにへなへなと背中を丸めて、しばし、考えた。
「……病院、か」
 通院か、見舞いだろうが、毎日通っているようなので通院なのかもしれない。優也はなんとなく悪いことをしたような気分になって、ため息をついた。
「駅まで、いっちゃうかな」
 終点の駅前まではあと三つほどだ。それほど広い駅ではないが、補講が終わる二、三時間くらい潰せれば問題はない。待合室で本でも読んでいよう。
 優也は明日、男に会ったらどう言い訳しようか考えながら、車内の暖房で曇った窓ガラス越しに、ぼんやりと見える大きな病院を眺めていた。



  戻る  次へ