冬のバス停 5


 駅まで来るのは随分久しぶりのことだった。駅前といっても土産屋や小さな飯屋が連なっているだけで、たいした見所も無い。平日の午前中ということもあってか、古ぼけたバスのロータリーの辺りは特に、人は閑散としていた。
「雪、降ってないな……」
 足元を見ると、新しく積もった形跡はない。もしかしたら、こっちは朝から晴れていたのかもしれないと思い、それでも息が白いのを確認して、思わず苦笑する。どこに行っても、やはり冬だ。
 とにかく駅の中に入ろうとして優也が踏み固められた雪の上を歩き出すと、どこからかギターの音が響いてきて、思わず足を止めた。さりげなく周囲を見回してみると、ある一点に目が留まる。
「あの人だ……」
 駅の正面入り口を少しはずれた右の方に、屋根つきの小さいベンチがある。そこにギターを抱えた若い男が座っていた。タートルネックにジャケット、ジーンズという恰好で、今はギターのチューニングをしているようだった。その姿を、何年か前に見た仁の姿に重ねる。仁もああやって、ボロン、ボロンと音を出して確かめながら、長い時間をかけて音を合わせていた。
 懐かしい思いに駆られてその場を動けずにいると、しばらくして途切れ途切れに鳴っていた音が止んだ。静寂を切って、今度は旋律のある優しいメロディが響き始める。優也は入り口まで歩くと、その横にある自動販売機にの影に隠れるようにして立ちながら、そっと男の横顔を覗いた。優也の存在に気づいていないのだろうか。男は夢中になってギターを鳴らしている。
「…………」
 ふと、優しいギターの旋律に歌が乗ってきた。優也は思わずため息を漏らした。ギターの音色に合うような、優しい歌声だ。仁の声に比べると若干高めで、。足を止めて聴く人は誰もいない。こうやって盗み聞きのようにこっそり聴き入っている男が一人、ここにいるだけだ。
 男は、自由だった。ここに来ていつも練習をしているのか、素通りする人々を全く気にしていない。虚しさを全く感じさせないのは、その歌が自己満足の象徴のようなものではなく、聴く人を優しく包み込むような歌だったからかもしれない。曲名は分からなかったが、自分で作曲した曲にしては旋律がしっかりとできすぎているので、恐らくカヴァーなのだろう。
 とにかく、優也は聴いていた。一曲が終わって、次の曲に入って、それでも優也は自動販売機の陰でじっとしてたまま、一歩も動かなかった。曲に聞き惚れるのと同時に、確かな羨望を男に抱いていることに優也は気づいていた。男は、こんなにも自由だ。誰も聞いてくれないかもしれないこの駅前で、こんなにも伸び伸びと自分を表現している。
 優也はいつの間にか、鞄の奥に押し込んだ携帯電話を取り出していた。目黒から返信のメールが来ていたが、それだけだった。この小さな逃亡劇は、どうやら誰にも気づかれていないらしい。安心と同時に、とんでもないことをしてしまったという僅かな後悔が押し寄せる。
 この制服を着ているうちは、と優也は思った。この制服を着ているうちは、誰も自由になどなりえないのだろう。簡単な話だ、あと二週間ちょっと辛抱して、大学受験に受かって、何の目的もないままふらりと入学する。そうしたら自由だ。――いや、本当に、自由か?
 自問して、優也は途方も無く続く空を見上げた。そこは白く覆われ、太陽すら顔を見せていなかったが、少し気分が落ち着いた。自分が何をしたところで、世界の何も変わることはないという、安心感。
 しかしそれに矛盾して、自由への憧れが胸を強く打っていたことも確かだった。
 結局男が四曲を歌い終わって、再びチューニングを始めるまで、優也はそこを離れることができなかった。



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