冬のバス停 6


「おはよう」
 次の日の朝、バス停でコートに身を包んだ男にそう声をかけられたが、優也は挨拶を返しながらも、何となく目をそらしてしまう。
 昨日のさぼりに関して、この男だけが唯一の目撃者だ。気恥ずかしさというか、とにかく見られてしまったことが恥ずかしかった。勿論、男がどこで降りるのか見るのが目的の一つだったということは、口が裂けても言えないだろう。
「……今日は?」
「え?」
 男はゆっくりとそう聞いた。優也が質問の真意を図りかねて首をかしげると、男はさらにこう付け足した。
「今日は、どこまで?」
 どこまで乗るのか、という意味だろう。優也は男とようやく目を合わせると、その瞳に吸い込まれそうな錯覚を起こしながらも、ゆっくり瞬きをする。
「…………駅まで」
 気がつくとそう答えていた。口にした後、一番驚いていたのは自分だった。男は、そんな優也を笑うでも、突っ込んで何かを聞くわけでもなく、
「そうか、」
 とだけ呟いた。僅かな安堵と落胆が胸をざわつかせる。だが、それ以上の言葉はなかった。
 いつもどおり遅れてきたバスに乗り込んで整理券を取った後、その番号を確認するように見つめる。あの男に宣言してしまったからには、本当に駅まで行くしかないのだろう。優也は再び目黒にメールを送ると、昨日駅にいたギターの男がまたいればいいと、密かに期待した。


***


 閑散とした駅の広場にいる数羽の鳩に、錆び付いたロータリーで待つ人に、そして眠そうなタクシーの運転手に聴かせるように、優しいメロディの優しい歌は静かな雪に溶けて響き渡っていた。優也は昨日と同じ場所に立って、男の奏でる音楽にじっと耳を傾けていた。今日はしっかりとマフラーも巻いている。相変わらず息は白かったが、そんなことに苦笑している暇はなかった。
 曲は、順番こそ違うものの、恐らく昨日と同じだ。それでも、飽きることはなかった。
 しかし、三曲目のサビに差し掛かったとき、突然、音がぴたりと止んだ。優也は不思議に思ってこっそり自動販売機の陰から顔を出す。すると、男もこっちを向いていた。目線がばっちり合ってしまい、気まずい。すぐにそらして背を向ける。
「君、昨日も来てたよね」
 男の声だった。歌っているときとはまた印象が違うなと冷静に考えながら、優也は振り向いた。呼ばれたのは明白だった。
「こっちにおいでよ、寒いだろ」
 そう言って、ベンチを一人分空けてくれる。そこまでされると断るわけには行かず、優也は黙って男の隣に腰を下ろした。
「ありがとうございます」
「その制服、赤船だよね?」
 男はギターをケースにしまいながら、そう聞いてきた。優也は内心びくびくしながら、頷く。
「あ……はい」
「何年生?」
「三年です」
 男は嬉しそうな顔をして、だよね、と言った。
「いやさ、僕の弟も今赤船の三年生なんだ」
「そうなんですか」
 どうやら説教をする気はないようだ。優也は肩の力を若干抜いて、足元に鞄を置いた。
「宏夢って言うんだけど……知ってるかな」
「ヒロム?」
 どこかで聞いた名前だと思った。そして、唐突に思い出す。思い出すと同時に、思い切り嫌な顔をしそうになってしまった。アドレスを交換(というか、押し付けられたようなものだ)したときのことは、まだ記憶に新しい。
「もしかして、片霧宏夢――……」
「そう! 知り合いなの?」
「一応、同じクラスなんで」
 男はそれを聞いて、さも嬉しそうににこにこしている。
「僕は片霧蓮。宏夢の三つ上になるのかな」
 三つ上といったら、優也と仁と同じ年の差だ。妙に親近感が沸いて、優也は片霧兄――蓮の顔をまじまじと見た。……しかし、いまひとつ、ぴんとこない。
「あの、」
「似てない?」
 蓮は分かっているというように苦笑いを浮かべた。
「あの、はい、すみません」
「よく言われるんだ」
 外見だけではなくて、性格も似ていないと優也は感じていた。宏夢のように押せ押せなタイプではないようだ。会話が運びやすい。
「……いつも、ここで歌ってるんですか」
 ずっと気になっていたことを、優也は口にした。蓮はうん、と頷いた後、何かを見るように空を見上げた。
「火曜日、日曜日以外は毎日ね。あとは、テストが近かったりするとそっちに比重が向いちゃうけど」
「テスト?」
「これでも一応、大学生なんだ」
 ということは、学業の傍ら、こうやって地道に音楽活動を続けているということなのだろう。感心すると同時に、ふと出た大学という言葉に、思い出したくないものを思い出してしまう。所詮これは現実から逃げているだけだということを突きつけられる。
「俺、そろそろ帰りますね」
 突然ベンチから立ち上がった優也に、蓮も慌てたように立ち上がった。
「まだ、君の名前を聞いてない」
 優也は鞄についた僅かな雪を払って、蓮に向き直った。並ぶと、意外に背が低い。そこだけは弟に似ていると失礼なことを考えながら、優也は微笑んだ。
「夏木優也です。……また、聴きに来ます」
 ロータリーを見ると、調度バスが着いたところのようだった。優也はぎりぎりの所で乗り込むと、すぐに蓮を振り返った。彼はさっきの場所に立ったまま、いつまでも座ろうとしなかった。



  戻る  次へ