冬のバス停 7


 午後の余った時間は、図書館で勉強してすごした。学校をさぼった自分に対して、漠然とした不安を感じたからということもあったが、蓮の音楽を聴いたことで気分転換になったのが大きかった。いつもより、参考書をめくる手にも力が入る。
 図書館独特の空気と静寂が心地よくて、この日は結局閉館ぎりぎりまで机にかじりついていた。外の風は刺すようにつめたかったが、優也の足取りは軽かった。充実した勉強ができた満足感のようなものがまだ体をめぐっていた。家に着いたのは、既に八時を回った頃だ。
「ただいま」
 リビングの電気が着いていたので誰かはいるのだろうが、返事はなかった。扉をそっと開けると、母がこちらに背を向けて椅子に座っていた。テレビはついていないし、何かを見ていたり、作業している様子でもなかった。それを気味悪く感じて、優也は何となく立ち止まってしまう。
「ごめん、遅くなった。……図書館に行ってたから」
「優也」
 さっと踵を返して二階へ行こうとした優也を、母はぴしゃりと呼び止めた。優也はある種の予感のようなものを感じて、背筋を凍らせる。
「さっきね、先生から電話があったの」
 廊下は暖房もなく冷え切っているというのに、全身から汗が噴き出した。そしてそのあと、血の気がざっとひく。心臓の音だけが大きく波打ち、脳みそまでもばくばくと揺らしている。
「昨日から、学校に行ってないんでしょう」
 口調だけは酷く優しげだったが、その声は固く、果てしなく無感情だった。強い恐怖の念が優也を取り巻いて、足が固まってしまう。
「優也」
 言葉と同時に、いつの間にか背後まで来ていた母の細い手が、優也の腕を掴んだ。振り払おうと思えばすぐにできそうだったが、おかしなことに、体のどこも思い通りに動いてくれない。母に連れられるまま、優也は外に出て、家の裏にある小屋の前まで歩かされた。
「母さん、何、すんの」
 喉はからからで、絞り出した声も震えていた。母はその質問には答えないまま、シャッターを開ける。どん、と優也は背中を押されて、埃だらけで狭い小屋の中に派手に転がった。すぐ起き上がったが、制服が汚れたのは確実だ。母を見上げると、暗くてよく見えないが、随分やつれた顔をしていた。それを見て、また金縛りにあったように動けなくなる。
「ここで反省しなさい」
 シャッターが目の前で、がらがらと閉まった。凍り付いていた足がようやく動いて、すぐにシャッターに手をかけたが、鍵をかけられたのだろう、びくともしなかった。老朽化が進んできたこの小屋に泥棒が入らないようにと、シャッターだけを買い換えて取り付けたのは数年前のことだ。ちょっとやそっと蹴ったくらいではびくともしないことくらい、優也は分かっている。
「……さみ」
 ぶるりと震えて、ようやく外の寒さに気づいた。ふらふらと壁にもたれ掛かると、そもままずるずると座り込む。不思議と、怒りや悔しさはなかった。むしろ、最後に見た母の顔がずっと頭から離れない。そうさせてしまったのは紛れもなく自分だ。
 優也は息も見えないほど真っ暗な小屋の中で、できるだけ熱を閉じ込めるように自らの膝を抱いた。顔も押し付けると、ようやく少し温かくなる。ほとんど何の音もしない夜の静寂の中、どこかの犬の遠吠えだけが、遠くに響いていた。



 いつのまにか寝てしまっていたのだろうか。優也は控えめに鳴る規則正しい振動音で、目が覚めた。寝ぼけた頭で、鞄を探って携帯電話を取り出す。着信だ。
「もしもし――」
『もしもし、優也?』
 聞こえてきた声に、すぐに気がついた。優也はかすれている声をどうにか戻そうと、唾を飲み込む。
「……めぐ、どうした?」
『どうした、じゃねーよ、あー、と……大丈夫……か?』
 どうやら電話の相手――目黒は、優也が二日間補講に出なかったのは体調を崩したせいだと思っているらしい。その心配そうな声に、思わず笑みがこぼれる。純粋に、嬉しかった。
「明日はいくから」
『そうだそうだ、早くこねーと机ん中プリントでバクハツするぞー』
「なんだそれ」
 そんな核心の無い会話を繰り返していると、煩わしい色々を考えずに済んで、気がまぎれた。
『てかさ、いきなり電話してゴメンな。寝てた?』
「そんなとこ。……でも、いいんだ、ありがと」
『…………』
 そこで電話の向こうが静かになってしまったので戸惑った。優也が「何だよ」と口にすると、目黒は照れたように言葉を濁した。
『あー、なんかさ……、うん、あれだよ』
「どれだよ」
 さばさばしているいつもの目黒らしくない。優也は冷たくなった鼻を片手で暖めながら、その続きを待った。
『ほら、……弱ってると素直になるんだな、優也って』
「……失礼な言い方だな。俺はいつでもスナオだ」
『言ってろ』
 そうか、自分は今弱っているのか。……そうかもしれない。冗談を言い合って、笑う。たったそれだけのことに、確かに今優也は救われている。目黒に言った感謝の言葉に、嘘はなかった。
『じゃあ、また明日な』
「おう、また明日」
 電話を切ると、その瞬間、外界とのつながりまでもがぶつんと切れてしまったかのように、優也は一人暗い倉庫に閉じ込められていた。誰もいない。誰も来ない。時折木霊する犬の遠吠えだけが、ここは外なのだということを教えてくれる。時間を確認すると、ちょうど十時を過ぎたところだった。優也は座ったままの姿勢が辛くなってきて、鞄を枕にしてごろんと横になった。ブレザーを脱いで、横たえた体の上にかける。上着がこれ以上汚くなるのだけは避けたい。
 目を閉じるが、あまりの寒さのためか、睡魔はなかなか襲ってきてくれなかった。キンキンに冷えたコンクリートが体温を奪っていくようだ。優也はできるだけ体を丸めて温まろうとしたが、限度がある。一度体を起こし、携帯電話のライトで小屋に何かないか探してみたが、この小さい小屋は米蔵の役割をしていたのだろう、大きな米俵の他には木と鉄でできた農具がかかっているだけで、何もなかった。
「さみい……」
 再び横になると、ふとバス停の男のことが頭をよぎった。今ここにいればいいのに、とぼんやり考える。
「名前、何ていうんだろ……」
 名前も学校もアドレスも、何一つ優也は男のことを知らない。
 ――知りたい、と、初めて強く思った。
「……」
 不意に寒気を感じて、強く体を振るわせた。思考回路がうまく働いてくれない。ただあの男のことだけが頭から離れないまま、優也はいつの間にか意識を手放していた。



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